社会人の帽子を脱ぐとかメガネをはずすとか、とドラクエの関係

例えば企業のそれなりのポジションの人が、そのポジションの立場でしかモノを考えられない状態から抜け出すのが大事だ、というときに
「〇〇の立場の帽子を脱ぐ」
「〇〇のメガネをはずす」
みたいな言い方をすることがあるけど、この難しさとドラクエとの関係を考えてみた。

ファミコン版のドラクエ1だと、装備できる装備品って
- ぶき
- よろい
- たて
の三つだけで、操作できるのも自分自身だけ。

それがドラクエ2になると、装備品にかぶとも増えて、パーティもローレシアとサマルトリアの王子、ムーンブルクの王女と3人になる。いわば他者の認識による多様性がここで生まれる。でもみんな王族だし選ばれし人間なので、結局同じ立場の人間が集まっているだけとも考えられる。

ドラクエ3では職業の概念が生まれて、生き方の変容という概念が生まれる。でもその変容はダーマの神殿という儀式を経ないと起こすことはできず、しかもレベル20=ある程度の下積み(苦労)をしないとその儀式は門前払いを食らってしまう。ある意味、「新卒で努めたら3年はかじりついてでも働くべきだ」みたいな考え方に似ている。

ドラクエ4では逆に個人と職業/役割が密接に結びついている。でも退化したのかというとそうでもなくて、個々人の多様性を生かして、いかにパーティというチームの効果を最大化するかが大切だということに気づき始めたとも捉えられる。トルネコ?ガーデンブルクに預けることでチームに貢献してるんじゃない?

ドラクエ5のターニングポイントは、アクセサリという概念が生まれたこと。これまで装備できなかった装備品が装備できるようになった。これはいわばこれまで装備品と思っていなかった「〇〇のメガネ」、「〇〇の帽子」が装備品であることに気づいた、ということではなかろうか。

ドラクエ6ではついに職業を自由に選べるようになる。いつどの職に就くかも自由。でも大事なのは職をはずすことも許容されているということだとも思える。これこそ帽子を脱ぐ、メガネをはずすということだと言える。しかもその立場にはいつでも戻ることができることが保証されている。ある意味自身の職業(=立場)とスキル(=心の在り方)が分離されたようにも思える。

なんてことを考えていると、「〇〇の立場の帽子を脱ぐ」「〇〇のメガネをはずす」というのは、ドラクエ1からドラクエ6までのナンバリングの進化=ゲームチェンジを経ないとそもそも物理的に実施できないということに気づく。ドラクエ1の中でどんなに頑張ってもその帽子は脱げないし、メガネは外せない。ナンバリング自身を変えるような大きな変化を自分に起こさないと、その変容を起こせない。

まずは、同じ組織内の自分と他人の違いに気づき(ドラクエ2)、
次に、立場というものが可変であることに気づき(ドラクエ3)、
そして、様々な立場/役割が集まることで様々な力が発揮できることに気づき(ドラクエ4)、
さらに、メガネや帽子というものが装備変更であることに気づき(ドラクエ5)、
最後に、自分の立場を変えることができて戻ることもできることに気づく(ドラクエ6)。

という多大なステップを経ないとできない難しいことなのだなあ、とまず気づくことがきっと大事なのだと考えた次第でした。

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