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100年間続いた英国人ブルック家の所有した謎の王国(1841年~1941年)2/3

この1841年~1941年間、ここサラワク州は、ホワイト・ラジャの君臨するサラワク王国として、栄えたのでした。1868年6月11日にジェームズが亡くなった後、同年8月3日に甥のチャールズ・ブルックが2代目を継承し、チャールズは、別名「白人の酋長」と呼ばれる程、ボルネオ島のサラワクの熱帯雨林と先住民族の文化を愛しました。その一つの現れが、チャールズが、長年掛けて計画し、1891年に建立した「サラワク博物館」です。今も、クチンの名所の一つとなっています。3代目は、1917年5月17日にチャールズの逝去後、同年5月24日、チャールズの息子ヴァイナー・ブルックが受け継ぎます。

世界の近代化に遅れる事無く、サラワク王国もブルック家の主導による近代化が進んでいましたが、1941年8月に開催されたサラワク王国100周年記念の式典の中で、ヴァイナーは、今後、王国制度を撤廃し、サラワクの人々が政治を司るべく、立憲君主に変更する事を宣言します。その後、間もなく、選挙や議会が行われ、ヴァイナーは、休暇を取って、オーストラリアへ行きます。その不在中の1941年12月8日に第2次世界大戦の開戦となり、サラワク州のクチンにも、沿岸部より日本軍が12月16日に上陸し、24日日には日本軍占領下となりました。これが、実質のサラワク王国の幕切れとなったのでした。
1945年の終戦後は、オーストラリアの終戦処理を経て、ブルック家よりイギリスへの譲渡が行われ、1946年から1963年のマレーシアに加入する迄のこの短い期間だけが、イギリスの植民地でした。これが、一つ、サラワクの風土的にも、サラワクの人々の考え方的にも、他のマレーシアの地域と異なる理由だと思います。ブルック家は、サラワクを所有しましたが、一方で、サラワクの人々に何かを植え付けたのだと思います。今でも、サラワクの至る所で、ブルック家の残していった遺産が街の風景の至る所に見え隠れします。

(3/3)へ続く。。。

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