この世界と自分とのつながり
先日、とあるドキュメンタリー映画を観ました。
『ムクウェゲ「女性にとって世界最悪の場所」で闘う医師』
という映画です。
デニ・ムクウェゲさんは、コンゴ民主共和国で働く婦人科医です。
ムクウェゲさんが立ち上げたパンジ病院は、コンゴ民主共和国東部にあり、病院のある地域では、いまだ多くの武装勢力が勢力争いをしています。
住民は、絶えず武装勢力からの暴力に脅かされていて、ムクウェゲさんは、この地で性暴力の被害にあった女性の治療を行っています。
この地域にはびこる性暴力は、単に「性的な欲求が戦争という異質な環境下で暴走した」というものではありません。
問題はもっと根深く、ムクウェゲさんは私たちの生活とも密接に繋がっている、と言います。
混乱の始まりと不運な豊かさ
コンゴ民主共和国は、ルワンダに隣接しています。
ルワンダでは、1994年に民族間の対立から大量虐殺が発生しました。
その結果、大量の難民がコンゴ民主共和国にも流れ込み、これに伴って武装勢力も流入。武装勢力とその敵対勢力、それぞれを支援する隣国政府などが入り乱れ、混乱を極めます。
ちなみに、ルワンダでの大量虐殺は、見た目上は「民族間の対立」ですが、もともとは植民地時代に宗主国が国を統治しやすくするために、民族を分けて、支配する側/される側に分断したこと、国内での政府と武装勢力間の勢力争い、過激派による悪質なプロパガンダなど多くの要因が重なって、発生しています。
ルワンダでのジェノサイドについては、こちらの映画も有名です。
話をコンゴ民主共和国に戻します。
ルワンダと接している東部地域は、鉱物資源が豊富に産出する地域でもあります。
武装勢力が活動を続けられてしまう理由は、幸か不幸か、この土地の豊かさにもあります。
武装勢力は、鉱物資源から得た資金で武器を買い、戦いを続けます。
鉱物資源が採れる村を次々に支配していき、そこでの利益を独占する、ということを繰り返します。
このようにして、武装勢力は継続的に活動の資金源を得ているようです。
そして、村を支配するために「戦術」として使われているのが、性暴力だとムクウェゲさんは言います。
鉱物資源の利益を独占する際には、住民の反乱を許さない、圧倒的な支配が必要です。
そこで、住民に恐怖や絶望、屈辱感を植え付けるために使われているのが、性暴力なのです。
衝撃的だったのは、性暴力が誰に対して行われているか、を知ったときです。
この性暴力は、あくまでも「支配」が目的で、自分たちが快感を得るためではなく、相手に対して恐怖を植え付けることが役割なので、赤ん坊から60代以上の高齢女性、そして、ときに辱めのために男性が性暴力のターゲットになることもあるのです。
戦争下で性暴力が横行することは何となく知っていましたが、それが支配のための戦術として、組織的に行われていることは知らず、恐怖を覚えました。
私たちとのつながり
コンゴ民主共和国での性暴力と私たちの生活とがどのように繋がっているのか。
私たちが普段使っているスマホやパソコンは、レアメタルなしでは機能しません。
採掘される場所が限られた貴重な資源であるがゆえに需要は高く、不法にとられたレアメタルが市場にも出回っていると、ムクウェゲさんは言います。
これはレアメタルに限ったことではなく、例えば洋服であれば、低賃金かつ劣悪な環境下で働いた労働者によって作られたものが、知らないうちに市場に出回っていることがありますし、コーヒーやチョコレートであっても同様のことが言えます。
遠く海を超えた場所で起きていることは、知らないうちに、どこかで私たちの生活と繋がりを持つことがあるのです。
よく言われる「まずは知ることが大事」を、改めて考えてみる
インターネットが普及し、それまでとは比べ物にならないほど情報量が増えた現代社会では、私たちの身の回りのものが、国を越えて、知らないどこかの誰かによってつくられている、ということを全く知らないという人は、ほとんどいないと思います。
日本では、レアメタルや石油がほとんど採れないこと、コーヒーやカカオの生産に適した環境ではないこと、そして、それらが作られる過程で、中には過酷な環境下で働いている人たちがいること。
フェアトレードやSDGsが、どこかしこで叫ばれている今日、これらのことも多くの人が知るようになってきているはずです。
学校の授業でSDGsを学んだり、講演会に行って話を聞いたり、テレビの特集をみたりすると、「まずは知ることが大事」という言葉を、よく聞くように思います。
でも、今となっては、多くの人がすでに「知ってはいる」のではないかと思います。
そうすると、この「知ること」の解像度をもう少し上げたほうが良いのだろうなと思うのです。
・まずは言葉通り、そういう事実がある、ということを知る
・知った上で、自分には何ができるのだろうかと考えてみる
・自分でもさらに調べたり、話を聞いたり、実際に現場に足を運んだりしてみる
・そしてまた、考える
そうすると、気づくのです。
「あ、自分にできることなんてほとんどないじゃん。」
と。
今回、ムクウェゲさんの映画を観て、「知ってはいた」知識をアップデートして、悲しい気持ちにもなって。
でも、自分が彼らのために何ができるかというと、すぐ始められることといえば、この話を人にも伝える、スマホやPCを大切に使い、無闇やたらに買い替えない、くらいです。
小学校に行って、「何ができるか考えよう」というワークショップをやった方がいいアイデアが出るかもしれないレベルです。
それでも、「知ってはいた」が「知って考えたけど、できることなんて本当にわずかである」に変わることは、すごく大切なことなのではないかと思っています。
これは、できることがほとんどないと知って悲観しろ、ということではなく、出発点を正しく認識する、ということです。
自分にできることなんてほとんどない、と自覚して初めて、「でも、これならできるかも、あれもできるかも。」という見え方に変わっていくのでは無いかと思います。
そうすると少しずつ、遠い国で起きている、知らないどこかの誰かの出来事が、「自分ごと」として捉えられるようになっていくのだと思います。