アルビジアさんの指輪を買った話

 アルビジアさんというのは、正式にはAlbiziaさんという、天然石を使った宝飾品を作るブランドの名前だ。私がアルビジアさんを知ったのはSNSで、「すっごく大きくてきれいで強そうな、石のアクセサリーを作るブランドがあるんだなあ!」という印象。その大きさはといえば、ゴージャスセレブである某夫人とか、某姉妹とかが着けているのに負けないくらいの、指から大きな石がはみ出る、インパクトのあるデザインで、しかもひとつひとつが個性的で2つとして同じものがない。「ダブレットストーン」という、色や模様のある石に、水晶などの透ける石を重ねる技法を用いて作られた宝石達が特に印象的で、それぞれに、海の底や宇宙や夕焼けや山みたいに見える、石たちが作り出す絵画のように美しい世界は、いつまでも眺めていたくなるような、そんな素晴らしさだ。

 私がアルビジアさんを好きなところはもう一つあって、政治に対するスタンスや意見をはっきりと表明しているところ。世の中の不正義や不条理に対して、真っ向からNOを突きつけていく、潔いスタイル。美しい宝物たちの写真と共に、世の中に対する思いを発信しているところ。これからやってくる自分の離婚のことや、それにともなって重度の障害をもつ娘をひとりで育てることなど、たくさんの不安を抱えていた私は、いつしかアルビジアさんの指輪を手に入れることを、1つの目標にするようになった。いつかこの中指に、アルビジアさんの大きなかっこいい宝石のついた指輪をはめて、世界の不正義に中指を立てるような気持ちで、強く強く私は生きるんだ、と心に誓った。

 しかし、アルビジアさんの指輪はお高い。某夫人や某姉妹が着けている種類の宝石のような、そんなとてつもないお値段ではないけれど、それでも、庶民の自分へのご褒美としては、かなりハードルが高い。これは私にとっては、一生の買い物である。きっとアルビジアさんの指輪を身につけるまでには、何年か時間がかかるに違いないと思っていた。お値段もそうだけれど、アルビジアさんのお店は鎌倉で、ここからはそう簡単に行ける距離じゃないのだ。いつか、いつか。それは私の遠い目標だった。

 ところが、そんな憧れのアルビジアさんが、思いがけず数ヶ月後にわが町にやって来ることがわかったのだ。ああ!その頃私はどうなっているんだろう。離婚は成立しているだろうか。娘との新しい生活は、少しは落ち着いているだろうか。とにかく、人生のどん底みたいな気分だった私の心に、アルビジアさんの素敵な石たちが近くにやってくる、ということだけが、確かな希望のように思われて、私はポップアップの期間と場所を、ボールペンでしっかりと手帳に書き込んだ。何とかして、必ず見に行こう。仕事帰りでも間に合うかしら?そうだ、仕事を休んででも行こう。たとえ何も買えなくても、運命の石に出会えなかったとしても、きれいな石たちを見たら、少しは元気が出るかも知れない。

 それからしばらく、どうやって生きたんだったか、とにかく色んなことに必死で、たくさん泣いたことだけは確かなのだけど、細かいことはあまり覚えていない。ただひとつ、私の人生に、すごく大きな出来事が起こって、私の時間が止まってしまった。アルビジアさんが来るほんの少し前に、身体の不自由な娘が突然この世を去ったのだ。そのできごとは、私の人生から生きる意味を奪ってしまった。「この子と面白おかしく生きて行こう。今の苦しみも、後でうんと笑おう。」と、施設に入ったばかりの小さな娘の存在だけを心の支えに生きていたのに。結局、夫が出て行ったことによる負担の巻き添えを食って、弱い娘は生き続けられなかった。悲しくて、悔しくて、「茫然自失」という言葉は、きっとこういう状態のことを指すのだろう、というような数日を過ごした。この困難を、親子2人で生き延びるはずだったのに。私だけがひとり、生き残ってしまった。

 娘が生まれてから、美容室に一度しか行けていなくて、私の髪は腰まで伸びていた。娘が落ち着いたら、せっかく伸びたこの髪を、ヘアドネーションしよう、と思っていた矢先の娘の死だった。束ねた毛先20センチほどを、家にあったハサミで、娘がお世話になった看護師さんに切ってもらい、娘の棺に入れた。私の一部も、娘と一緒に天国へ行くためだ。

 葬儀のあいだは髪をアップにして隠していたが、下ろすと毛先はギザギザのままで、なんとかしなくてはならなかった。娘の火葬が済んだ日、近所の美容室でヘアドネーションカットをお願いできることがわかり、思い切って行ってみることにした。「もう少し伸ばしてからでも良いですけど、短くなっても良ければ出来ますよ、ヘアドネーションカット。今日はもう時間がないので、明日予約を入れましょうか。」と美容師さんが言うので、お願いした。翌日、器用に束ねられた毛束に、根元からはさみが入る。ジョキジョキ、ジョキジョキとカットされた長い毛束は、両手に持つと、ずっしりと重かった。こんなに重い髪を、私はずっとくっつけていたんだ、と感慨深く思った。頭がものすごく軽かった。

 生まれて初めて、私はショートカットになった。合わせ鏡で見た私の後頭部は、刈りたての芝生みたいに短い。似合うのか似合わないのか、自分としてはすごく違和感があったけれど、これで良い。私の髪が何かの役に立つのかも知れないのだし、髪はそのうちまた伸びるんだから。

 髪を切った次の日は、良い天気だった。私は娘のための忌引休みが続いていて、ふと思い立って、離婚調停に必要な資料を揃えるために、あちこち用事足しに出ることにした。本来なら、もう少し娘のことを思って、静かに家にいるべきだったのかも知れない。けれど、やるべきことは山ほどあり、ひとたび仕事に復帰してしまったら、平日の昼間に出歩くことは難しい。街中に3箇所ほど、行かなくてはならないところがあって、奇しくもその日は、アルビジアさんのポップアップの期間中だった。そうだ、用事が済んだら、石たちに会いに行こう。そのために、頑張って用事を済ませよう。

 ウインドウに映る自分の姿を、他人のように不思議に感じながら、「大丈夫。誰も私が娘を亡くしたことを知らない。急に泣き出しさえしなければ、私は世の中にごまんといる、ショートカットの女性の一人だ。」と自分に言い聞かせて、一つ一つ、出来ることをこなしていった。

 私の心は鉛のように重いのに、空はどこまでも青く澄んでいた。高く高く登ったらその先には、娘がいるのだろうか、それとも彼女はまだ私に纏(まと)わりついているんだろうかと、ぼんやり考えていると、涙が溢れそうになる。泣かないように気をつけながら、一歩一歩数えるように、私は歩いた。

 アルビジアさんのポップアップに到着したのは、結局午後何時だったんだろう。結婚する前は割と行きつけだった、老舗デパートの目立つところに、アルビジアさんのコーナーができていた。「やっと会えた。」店員さんと目が合った途端に泣き出しそうになったけれど、相手にとって私は見知らぬ人である。初めて出会う人に、いきなり人生を語りだすのもおかしいので、私はできるだけ平静を装って、ショーケースの近くに寄った。

 優しくにこやかに、その人は声をかけてくださった。「気になるものがあったら、ぜひ着けてみてくださいね。」ショーケースには、ついこの間SNSで紹介されていた、美しい石たちが光っていた。憧れの宝物たちが、今私の目の前にある。「御守りになるような、指輪を探しているんです。」と伝えると、透明な半球の中にグレーの岩がそびえている石や、多面体のカットが施されたキラキラのピンクの石や、ゴツゴツした淡い紫の石たちを出して見せてくれた。ふと見るとショーケースの中に、ひときわ小さくてあまり目立たない、つるんとした石のついた指輪がある。SNSで見たやつだ。どうしてか着けてみたいと思い、「あれも、見てみても良いですか?」と指差してショーケースから出してもらった。それには、「カボションカット」というツルツルの半球状に磨かれた、アルビジアさんの指輪にしては、ずいぶん控えめな石がついていた。

 透き通るその石にはインクルージョンと呼ばれる内包物が入っていて、薄ピンクに煙ったり、茶色っぽく燻(くゆ)ったり、白くキラッと光ったりしている。中は一体どうなっているのかと、ついつい見惚れてしまう、不思議な魅力のある石だ。

 一度は指にはめてみたものの、「やはりアルビジアさんの指輪を買うからには、大きい石が良い。」そう思って他にもいくつか見せてもらった。けれどどうしても、先ほどの小さな石が気になってしまう。もう一度その指輪を、右の中指にはめてみる。サイズはちょうど。小さくて丸くて、よく見ると中に炎を宿しているようなこの石が、娘を思い出すのに似つかわしい気がする。あからさまなキラキラじゃないのが良い。人生はキラキラじゃなくたって良い。

 お値段を見せてもらうと、それはもう「良いお値段」である。(アー!)と強く息を吸い込む音を発してしまうくらいには、良いお値段。頑張れば買えない額ではないけれど、私にとっては清水の舞台から飛び降りるような、思い切った額の買い物だ。「今度にしようか…」という考えが脳裏をかすめる。でももう一人の自分がこう言う。「今度」がもしあったとしても、今この指に光っている同じ石には、きっと二度と巡り会うことはできないだろう。一期一会。一つ一つの出会いは、奇跡だ。それから、「今買った方が良い。今日から死ぬまでの日割りにしたら、早く買った方がお得なんだから。」という、言い訳が思い浮かぶ。これはどこで聞いたんだったかな。高いものを買う時には、とても便利な方便だ。

 そしてその日、私は意を決して清水の舞台から飛び降り、その帰り道から毎日、指輪は私の中指に光っている。娘のいない空白を全て埋めることは到底できないけれど、それでもこの石が私の側に寄り添ってくれていることは、とても心強いことだ。未だに何とも描写できない、不思議に美しいこの石に、私は深い愛着を覚えている。小さくて丸くて、美しい生命の炎を抱いている。私の娘はそういう子どもだったな、と思う。心の中で中指を立てて生きるはずだった私のところには、大きくて強そうな石の代わりに、娘みたいな可愛い石がやって来た。アルビジアさんがSNSでよく言う「運命の」出会いというのは、きっとこういうことなのだろう。娘への思いを抱いて人生を歩む私は、傍で共に歩んでくれる同士を得たみたいだ。

 アルビジアさんのSNSには、相変わらず新たな美しい石たちがアップされ続けている。またいつか、会いに行けるかな。ルチルの星が流れる夜空みたいな石を、今度は鎌倉で見てみたいと思う。それまで頑張って、生きていなくてはね。美しい石たちの写真は私に、次に会う日まで生きる口実をくれる。

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