私の超越

偉大の反対の、ほぼ全ての現代アート作品が、自己の希少さを主張して諸制度に守られている様は、アホ臭い。

参照。

フリードリヒ・ハイエク『致命的な思いあがり』(1988年)

第二章 自由、所有、そして正義の起源

4. 所有のさまざまな形態と対象、およびその改良

p.49
さまざまな資源にたいする個人的な管理範囲を定めるルールの体系の試行錯誤による緩やかな選択は、ある奇妙な状態をもたらした。つまり、物質的な生産手段の効率的な組織化にとって不可欠な物質的所有の諸形態を一般的に疑問視しがちな知識人その人たちが、まさしく、比較的最近の発明にすぎない、たとえば文学的作品や技術的発明にかんする特定の非物質的な所有権(すなわち著作権・特許権)のもっとも熱心な支持者になったのである。
この種の所有権と他の所有権との差異はこうである。すなわち、物質的な財の所有権は希少な手段の使い道をそのもっとも重要な用途へと振りむけるが、文学的著作や技術的発明のような非物質的な財の場合には、それを産出する能力は同じくかぎられていても、ひとたび産出されたならば無際限に増殖しうるのであって、その種のアイディアを生みだす誘因を喚起するためには、もっぱら法によってそれを希少とするしかないのである。しかし、そのように強要された希少性が、人間の創造的な過程を刺激するもっとも有効な方法であるというのは自明ではない。著者がそれにたいする排他的な著作権を得られなかったとしたらいま存在していないような、偉大な文学作品がただの一つでもあるだろうか、私には疑わしい。

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