昭和10年代前後の美術、井上長三郎を中心に
オマル マン氏との対談、第三回目。
2021/9/9~11
O「ちなみに、井上長三郎も、めったに出ないタイプの魅力的なアーティストだと思っています。」
K「私もそう思いました。今日図書館で見て、やはり、ずばりオマル マンさんの絞り通り、1930年代周辺が井上は最も良かった。」
「それでは、今日借りてきた資料を参照として共有したいので、明日にはめぼしいものをスキャナーで取って、Facebookにオマル マン限定設定で掲載しておきます。1937年、独立美術協会が編集した小画集で、ほぼモノクロですが、井上の抽象期が中心に載っており、福沢一郎の言葉なども冒頭にあるので、ここら辺が私は可能性を秘めていると感じているので。」
参照。「井上長三郎画集」独立美術画集.1、1937年。
O「大変に貴重な画像です。感謝いたします。デッサンが独特な印象です。例えば「肉と青年」(1935年) なんというか、造形的感覚がドッシリしている。」
K「そうですね、これが戦後になると、徐々に失われていくように思えます。」
O「戦前~戦中にかけての空間性が認められる時期と、戦後の、空間性が後退していく時期があると思うのですが。」
K「井上は、最初期の風景画(「風景」「習作」1925年)から、驚くほど画面に空間ができています。」
O「ええ、ビックリしました。」
K「そこから、後退していく。晩年は、ベーコンの模倣のようなこともやっており、画面サイズだけでかいという印象です。」
O 「10代にして、セザンヌを自分のものにしているのか!?と愕然としました。」
K「そうですね。稀有な日本人ですね(若き)。」
O「大連(満州近郊)生まれですし、根本的なにか精神構造が違う人なんじゃないかという気がします。」
K「戦後は、風刺画の調子が大きく占めており、特に死んだような男の姿を執拗に(馬に乗って太陽に照らされた男とか)、それに対照して少女の像を明るく描いているのが私は印象的です。」
参照。
Chozaburo Inoue
Sancho Panza
https://www.mutualart.com/Artwork/Sancho-Panza/AEB262C91F6AC1E2
Chozaburo Inoue
Girl
https://www.mutualart.com/Artwork/Girl/4C633D55C79F1D07
「なるほど。別空間を幼時に体験していると。」
O「ネットで検索すると後期の作品は割と多くヒットしますね。なんでもござれという感じで、いろんなものをコピーして、自分のものにしているという印象はずっとあります。」
「人物的にもかなり興味深いですよね。’30年代に、世界情勢が不安定になって、みんなヨーロッパから日本へ逃げ帰っている中、独りポーランドとかヴィシー政権下のフランスとか、ムッソリーニのイタリアとか、あちこちに飛び込んでいってます。命知らずなのか、一体なんなのか、」
K「そうなんですか。凄い。興味深い、人物的に。」
O「「ゴーガンはタヒチの農民が耕作したり、木登りする姿を非合理的に描いのだが、僕は木登りもやるし、山畑を開墾し、桑株のすごいやつを掘り起こしたり、、」井上の言です。もとから肉体派、行動派なんですよね。」
K「面白い。そうか、身体性、私が戦前の井上で引き付けられる点は、そこかもしれない。」
O「空間性という点で、群を抜いているのは、そういう出身の部分が大きいのかもしれませんね。しかし、何故戦後はあんなふうに後退していったのか...」
K「そう思いますね。戦後は、皮肉な調子が全面に出てきた。戦後が単純につまらなかったのではないか?と、私は考えていました。三島由紀夫なども、私は思い浮かびますね(「私は戦後を鼻を摘みながら通り過ぎた」)。」
O「教科書通りの話をしても、’60年代から、「左傾化」が本格化します。もっと分かりやすく言うと、従来の絵画(=保守/ブルジョア)を否定するような動きが主流となった。いろんなアーティストが、’60年代からは、絵画を捨てますよね。例えばドナルド・ジャッドも。」
K「あ、そうか、ジャッドも前段階に絵画があるんですね。私は見ていませんでした。」
O「ジャッド、’50年代に良い仕事してたんですよね。」
「(上記、「井上長三郎画集」より「静物(骨と布)」(1935年)について)ヘンリー・ムーアみたいな。やはり優れている。」
K「私はこれ、達成というか、井上の代表作ではないかと思います。」
O「あきらかに、デッサンがずば抜けてますよね。ずば抜けている、というか「独特」。唯一無二、かな。」
K「そうですね、独特で、バランスも悪くない。やはり身体性か。」
O「身体性、ですね。靉光との共作である「漂流」(1943年)は、よくみるとヘンリー・ムーアの戦争画みたいですよね。そういえば。」
K「え? 共作なんですか? あれ。黒いの。」
O「ええ。あれは靉光が、そうとう深くかかわっているみたいです。後年、筆を加え続けたのも、このことと関係ありそうですけど。」
K「それは驚いた。上記の画集で最後に出てくるのが、私は靉光を想起させるものがあるなと、思っていたのですが。」
「筆を付け加えたのは、これは私は奇妙に思っていました。」
O「'30年代の二大巨頭の合作なんですよね。」
K「それは面白い。大きい作品なんですよね。」
O「あの加筆は、一体...と。井上さん、何考えてんだろ?って感じで、若手は冷たく見てたんじゃないですかね。」
K「それは、凄い話ですね。」
O「深い理由がありそうなんですけどね。アンデパンダン展に加筆して何度も出してたらしいし。」
K「何度もっていうのが、また凄い話ですが。良くはなっていないと思うんだけども。元の作品の画像資料が、また不鮮明なので、比較が困難なのですが。」
O「「反骨精神」だとは推測できます。酒井忠康の話によれば、性格の癖が災いして、せっかくのよい話がお流れになる、ということもあったみたい。人とうまくやる、ということが不得手な人だったのではないか。」
「お前らは「現代アート」してろ。俺は「絵画」を描くぞ!このやろう!みたいな。’60年代に。」
K「率直な人なんですね。」
O「「率直」なんですよね。井上に関する記事を読むと、なんか、筆にためらいがあるというか、「毒舌、諧謔の画家」という風に描写しているのですが、本音を抑えている気配がある。」
K「井上について書く側が、本音を抑えている?」
O「そうですね。なんか、オブラートに包んでいる感じです。井上はそうとう、強烈な人だったのかなと。」
K「怖かったと? 身体性=行動力があるから?」
O「(肖像写真を見て)ちょっと怖さのある顔ではあります。闘士という風。」
K「なるほど。(笑)。靉光とは、これも対極かもしれない。」
O「たしかに、靉光とは対極にあるかもしれないですね。あくまでも「前衛の闘士」を地で行く。」
K「この作品(上記「井上長三郎画集」より)「追想」(1937年)、私は靉光の『眼のある風景』との関連性を感じた。」
O「凄すぎる、、言葉がでない、、、天才。」
K「「作品(屠殺場)」(1936年)も、激しい作品ですね。」
参照。
井上長三郎《屠殺場》1936年 油彩・画布|広島県立美術館
https://www.hpam.jp/museum/wp-content/uploads/2021/04/O-521.jpg
O「激しいですよね。あれも独特で、井上だけのものです。」
K「それだと、昭和10年代前後の日本美術の中心は、井上か靉光か?みたいな議論も可能だと私は思いますが。靉光は座ったまま格闘している感じで。」
O「靉光と比較すると、井上には悪い意味で「欲望のわかりやすさ」もあります。
靉光との共作「漂流」が代表作という事になると思いますが、「漂流」も露骨に「厭戦的」な作品ですし。穿った見方かもしれないが、自己を前衛の闘士に仕立てたい、というような。そうした欲望は、若干感じられます。インタビューを読むと、この印象が強化されます。」
K「なるほど、鋭い。戦後を生きたいという欲望が、井上には強くあった。左翼が文化・政治的に力を持った時代。」
O「しかし、だとしても、画家としての技量の高さは、疑うべくもありません。具象を描けば天下一品ですね。戦後の現代アートの方向性にはマッチしなかった。
」
K「靉光の(または靉光と井上が共有した)痕跡を消すことには、葛藤はなかったのだろうか?」
O「どうなのかな? 葛藤はなかった気がします。なんというか、、、内面性が希薄な人格というか、、、。「ゴロっ」としたキャラクターですよね。」
K「そうなのか。」
O「靉光の話とつなげると、あんまり人物の「顔」を真剣に描かないですね。あのA級戦犯の絵画にしても。」
K「顔を描かない、そうかもしれませんね。もうちょっと、何か要素に還元しようとしているのか。」
O「その志向性はありそうですよね。セザンヌが原点だったようですし。そういう意味では、完全なプロの画家ですよね。自分は世界をこう見ているとか、これが自分の解釈だ、というような美的なものは避けるというか。」
K「なるほど、「セザンヌ」の原点。セザンヌ自身は、ほとんど俗世間から離れたような人格だったが。美的なものは避ける、なるほど。」
O「セザンヌとは異なったニュアンスですが、井上もそうとう苦労はしていますね。人とうまくやれなかったっぽいですし、いろいろ行動はするけれど、努力が報われることは少なかったかもしれません。」
「井上は、驚くほど優れたアーティストですが、世間一般の知名度はいまいちですよね。」
K「上記、1937年に独立美術協会から出された画集の冒頭、福沢一郎が書いていますね。「君は実生活の苦しい体験者なのだ。」」
参照。「井上長三郎画集」独立美術画集.1、1937年。
井上君の仕事
画家の仕事が性格的であると云ふのは、誰に就いても云ひ得る事であるかも知れない。しかしこの性格は、井上君の場合に於て、特に重要な意味を持ってゐる。
やゝシニカルな、しかし肯定的な人生に對する態度、感覺的であるよりも意志的な繪畫的表示、それに加ふるに満々たる闘志など、そこに井上君が現在の様な風格に到達した理由があると思ふ。君は實生活の苦しい体験者なのだ。今年の獨立展出陳作は、技巧的に云つて、同君の今までの何れの作よりも完成した感じを抱かせる。しかし敢て苦言を呈すれば「大作」は、テーマの取扱上、寫實と空想との矛盾による畫面の分裂を生じてゐる。之は同君が今後の作に於て一考を要する問題であると思ふ。
昨年の諸作は全くアブストラクトで形象の興味に終始してゐた点で異例であるが、繪畫的に甚だ成功したものであつた。
井上君の藝術の變遷の跡を追ふ餘白を持たないが、本畫集の寫眞によつて、諸賢の批判を期待したい。
最後に、君の如き、才能のある畫家を僚友に持つ事を私は誇りとする。
福澤一郎
O「加藤さんの掲載された各画像には「やられ」ました。とんでもない画家ですね。」
K「私が画集から抜粋しました。インパクトがあるものを。最初の風景画からすごく良いですからね。早熟ですね。」
O「ええ、早熟。そこはセザンヌとは違いますね。」
K「これ、まだ19歳ぐらいだから。」
O「「戦士」だったんでしょうね。最初っから。「実生活の~」というのも、プロレタリア文学の科白みたいな感じで、1930年代の雰囲気が伝わってきます。」
K「そうですね。戦後も、井上は同様に生きにくかったのでしょうか。福沢はここで的確と思える評価をしています。「昨年の諸作は全くアブストラクトで形象の興味に終始していた点で異例であるが、絵画的に甚だ成功したものであった。」最後に、「君の如き、才能のある画家を僚友に持つ事を私は誇りとする。」」
O「的確な評ですね。’30年代の井上の才能はピカソ級だと思う。」
K「私は井上のこの時期に、今に繋がる可能性を感じている。」
「靉光の感性の豊かさも、同時に。」
O「共感します。」