「世間」からの離脱──「戦争」「個人主義」「契約」「自己責任」
この間、COVID-19を挟んでの、文化また経済・社会の変容論で最も私が注目したのは、経済学者・池田信夫氏による以下の文章です。
「コロナは一過性の感染症ではなく、日本社会に意外に大きな変化をもたらすような気がする。特にリモートワークが一挙に広がったことは、これまで大部屋で1日中(アフター5も含めて)一緒に働いてきた日本人の生活を大きく変えるだろう。このような日本人の働き方は、農業社会から受け継いだものだ。
人類の圧倒的多数は農業で生活してきたので、小規模な共同体の中で一生暮らすのが当たり前だった。これを阿部謹也は世間と呼んだが、キリスト教化する前の古代ヨーロッパも、狭い世間の中で暮らす共同体だったという。フランス語でもsocieteの原義は「世間」という意味に近く、ドイツ語のLeuteの語源もそれに近い。
しかし中世に人々が村を超えて移動し、戦争するようになると古代的な共同体が解体され、国(領邦)を守るためにキリスト教で精神的に統合し、教会が個人を管理するシステムができた。その秩序を守り、ヨーロッパを教会法で統合したのがローマ・カトリック教会だった。
ここでは個人は地域や家族から切り離され、神の前で絶対的に孤独な存在となり、救済されるかどうかは「自己責任」となる。個人主義はこのような特殊ヨーロッパ的な思想であり、自然な感情になじむものではなかったが、「強い個人」が結ぶ契約と非人格的な法秩序は、文化を超えてすべての社会に通じる普遍的モデルになった。
アメリカはそれが純粋培養された契約社会であり、そこで生まれたインターネットは、アメリカ社会の鏡像である。それはローカルな文化から切り離された個人がコントロールするネットワークであり、日本人のなじんできた親密な世間とは異なる世界である。日本人がそれに適応できるかどうかが、デジタル・トランスフォーメーションの本質的な課題だろう。」
「世間」からグローバル資本主義への遠い道|池田信夫 blog
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/52055296.html?fbclid=IwAR3iWPEvrlgarQEODe5MlILZ_DT7VVHPWR8Ilvo4qZaop46gRIre5f3VN20
私は同時に、ウィルヘルム・ヴォリンガー『ゴシック美術形式論 』(1911年)をこの時読んでいた。Facebookに日記とし、私はこの池田氏の文を読んだ感想をこのように書いている。
「ゴシックの中世からIT社会までの連続性として読める。「世間」からの離脱、「戦争」「個人主義」「契約」「自己責任」。」(2021年3月7日)
https://www.facebook.com/go.kato.71/posts/2177551052377812
なぜ私が、ゴシックと今日のIT社会を結びつけて考えたかというと、ヴォリンガーが語る「北方」のゴシックに、動的な、今日に至る諸々のイノベーションの連鎖のそもそもの始端を見たからです。
その基盤となる動性は、初期北方的装飾における「潜在ゴシック性」として、著書冒頭、既に描写されている。
北方的な線の無窮の旋律
「有機的方向に導かれる古典人の感情は、反覆によって生ずるところの、有機的調和を超越して機械的なものになるおそれのある運動に、延音記号を利用するような構造を与え、絶えず沈静化の音調を与えている。それは急調に進んでゆく機械的な運動に向かって、有機的感情にうながされて生ずるこのような反対的対立という意味での反覆によって、いわば制禦の手綱を結びつけているのである。
これに反して北方的装飾では、反覆は、こういう平和な加算的な特徴をもっていない。いわば乗算的な特徴を帯びているのである。」
「北方的装飾の旋円運動と古代装飾の放射運動との差異は、同意味の反覆と反対意味(Gegensinn)の反覆との差異に酷似したものである。後者は平静な均斉化された有機的運動であるが、前者は絶えず高揚してゆく機械的な運動である。」
ヴォリンガー『ゴシック美術形式論 Formprobleme der Gotik』(1911年)
ゴシックの技術革新の中で、最も象徴的なものとして私が感じるのは、「フライング・バットレス」である。
教会堂の外部建築
「空間芸術の問題を一般的に処理したものとして見る限り、古代建築では、またすべての古代建築に依存している様式、とりわけロマネスク建築では、外部建築は、内部の空間区画に対する外部においての補足語として現わされてきた。が、今やわれわれはゴシック様式において、本来的な空間区画、すなわち鞏固な壁面が解消され、構造的ならびに美的機能が、建築の静力学的な個々の力の上に転移していったことを認めた。このような建築解釈の根本的な改変は、その自然的な反作用を外部建築構成に対してもおよぼさざるをえなかった。この場合にもまた、固定され封鎖された壁は排撃されねばならなかった。ここでもまた個々の力を解放する手段は徹底的に実行されねばならなかった。
われわれはロマネスク様式において、壁面化粧柱施工(Lisenenwerk)やアーケードの施工などによって、無表現な壁に加工してゆく手法がすでに始まっているのを認める。ところでこの場合には、壁を生かし、そこから一種の表現を獲ている能動的な力は、単に装飾的な価値しかもっていなかった。というのはこの力が、まだ内的な構造と直接眼に見うる関係に立っていなかったからである。すなわち外的な力が表われていたので、建築自体の内在的な活動力が表われていたのではない。構成の語り出す言葉はまだ発見されてはいない。ゴシックの表現意欲の十全な表現の可能性は、この外的な力に対してだけは差押えられていた。こういう内在的な活動力を外部建築にもめざめさせ独立化させるための合言葉を与えたものは、われわれがヴォールト利用の傾向の進展のうちにすでにおこりつつあるのを認めた、あの内部空間の構造法であった。ヴォールトを支えるものとしての壁の荷重を除くことによって、また特別なアクセントを与えられた個々の場所に圧力を集中させることによって、自然に控え柱を使用する必然性が生れた。この必然性は他の建築でもこれと類似の情況におかれた場合には、当然同様に現われるものであって、またそれは何とか解決されてきたものである。したがってゴシックの控柱組織は構造的には何も新しいものではないが、ただ普通の場合のように全体の周壁のうちに隠されずに、一目みてそれとわかるようにされている点はやはり新しいと言えるのである。構造的必然性の美的肯定ということは、このように一見してわかるようにすることのなかに初めて存在する。すなわちゴシックの表現欲求は、まさにこの構造的必然性のうちに、同時に美的表現の可能性を発見した。そしてそれとともに外部建築形式に関する決定的な原理をも見出したのである。」
「この場合にも、まだ逡巡し模索していた意欲に決断をせまり、組織の一貫した徹底を招来させたのはまったくとがりアーチの導入ということである。なぜならばとがりアーチの導入とともに身廊のヴォールト架設は十分の高さを獲得し、身廊の柱もこれにともなって極度の細長さをもつようになる。そしてこの細長いということは荷重を比較的軽くするにかかわらず、折れ曲がる危険をともなっていた。そのために一定の点に、支扛機能をもったものを取付けねばならぬ必然性が生まれる。ところが身廊をゴシック的に強調するために要望された低い側廊は、もはや支扛構造としての利用範囲に入れられないほどの低さになっていた。したがってその高さのあたりに支扛物をこしらえねばならぬ必然性が生まれる。この必然性が、あの側廊の上を越えて、とびはなれて空中高く突出している支扛組織を造らせたのである。すなわち建築全体を結成している個々の静力学的な力を、だれの眼にもわかるほど顕著なものにさせたのである。
飛控え(フライング・バットレス)は絶大な精力のこもった態勢で、身廊のヴォールトの押圧力を側廊の厖大な控壁に移してゆく。そして側方からこの控壁の上にかかってくる荷の圧力に対する強靭な抵抗を、この控壁に容易に獲させるために、上方から小尖塔によってさらに荷重が加えられている。したがってこの控壁の架設組織がもつ構造的な意味は、それを上方から下方に向かって迫ってゆくとき始めて理解される。が、美的印象にとってはこれと反対の方向、すなわち下方から上方に向かう方向の方が標準的なのである。われわれは中天に向かって押し進む精力が、控壁という力の貯蔵所からはなれ去ってゆく姿を認める。これはまったく高さに向かおうとする目的を、さらに強大な機械的な力の展開のなかで達成するために他ならない。控壁から発し、飛控えを越えて、ついに身廊の屹然とした高さに達するこの運動は、人にそれの模倣を強制するような力をもっている。その他にも控壁組織の構造的解釈と対立するこういう美的解釈を観者に強要するためには、あらゆる手段がつくされている。すなわち小尖塔も控壁の荷重としては作用していない。むしろ高さに向かおうとする衝動のなかの自由に解放された余剰力として働いている。しかもそれはこの上昇衝動が、高さへの発展の本来の目的が達せられる前に、すでにたえきれなくなって高みに突進してゆく姿なのである。のみならずこのような逡巡をしたおかげで、今度はしっかりと全体をとらえ目的を意識しうるようになった飛控えの運動が、上述の小尖塔のうちにみなぎっている、いわばはかないともいえる力の昂騰を機縁にして、あらたに一層力強い、一層人をうつ表現力を獲ているのである。」
ヴォリンガー『ゴシック美術形式論 Formprobleme der Gotik』(1911年)
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