蛭子能収=茂木健一郎の波目
文中、「私たちの世代は「欧米に追い付け、追い越せ」といった明治維新に近い気概があった。」
欧米に追いつき、追い越せという価値観ほど、世代的に遠いと感じられるものは確かにない。(私自身の)バブル世代以後、そうではないか。無意識にはあるのかな。
(同)、「政治家を見ていると、自分のことしか考えない人が多く、国のために、みんなのためにという気持ちが伝わってこないので、若者が大人を見て無力さを覚えているのかもしれない。要領よく、上司の覚えがいい人たちが重用されれば、まじめに取り組んでいる要領の悪い人の気持ちは萎えてくるかもしれない。」
私が言っている、アート界を支配する「(自称)発達障害者の世渡り」というのは、性格としてこれとかなり類似したことを指している。参照。
国家とか、ダサいこと考えるなよというのは、バブル世代以後の確実な共通了解。
80年代に台頭した文化人の代表の一人・糸井重里の有名なキャッチコピー「おいしい生活」は、広告・業界用語の「それ、おいしいですね」(ボロい仕事だという意味)から来ているという。バブルがはじけた90年代以後も、引き続きそれを体現していたのは、例えば漫画家の蛭子能収。「本業の漫画を描くより、広告にちょっとしたイラストを描くのが、お金がいいんですよ〜」と発言していた。目が漫画のそれの「波目」で。その他、テレビ出演。それら業界人にどこかで偶然会ったときに、ツンツンと仕事を催促すると。そうすると、「おいしい生活」の連続(=フロー)が実現する、と。
現代において、それを継承しているのは、美術家としての私が見るに、脳科学者・茂木健一郎氏の波目。深く、「身体化」された。
茂木健一郎氏は、自身のYoutube動画で、「自分は子供」、「苦労はしたくない」、「世間の中に転がっている仕事をやるのが嫌」、「フローが理想」と絶えず語っているが、その背景にあるのは、一つは80年代に流行したニューアカ(浅田彰を代表とする)による「子供」の権威化がある。「(大人)子供」の権威化は、元を辿ると、ドゥルーズ&ガタリの『アンチオイディプス』等だが、美術家・彦坂尚嘉氏の最新のYoutube動画にあるように、日本では、戦後すぐの岡本太郎からすでに「(大人)子供」の権威化は始まっていることが、美術史上の事実として、詳しく語られている。
この大きく見て、全体のフローがあるので、安心して茂木健一郎氏も語っているのですね。私は茂木健一郎氏が視界に入ったのはごく最近だが(東京芸大で講師をやっていたことも知らなかった。私は美術制作に日頃一生懸命なので目配せする暇がない)、美術界(現代アート界)の広告塔の一角の印象。それを外されたら、茂木氏はおそらく仕事(=アルバイト)は激減するので、必死になって素人考えの美術論を、動画等でもたえず発信しているというのが私の印象。
また、上の私のnote記事「「発達障害=凡庸」の全面化図式」の追記にも昨日書いたが、>「加えて、予測されるのは、「発達障害=芸術」制度内の、(主に「権威」との距離の各、取り方の差異による)潜在的内ゲバの、表面化の可能性」が、奇しくもリアルタイムで実現している。上記・彦坂氏の昨日の動画中、美術家・糸崎公朗氏の発言において。糸崎氏は自身を「ADHDアーティスト」と規定しているが、私も指摘する業界制度内の問題を語っている。彦坂氏との、岡本太郎論を通して。
茂木健一郎氏が表している問題に戻ると、茂木氏は「芸術」への憧憬を絶えず語りながら、例えば自身が小説を書いてみても、いわゆる「自己実現」の達成感がまったく成り立たないと嘆く。そこは正直に。私から言わせれば、「子供のままでいい」という大人子供の(すでに過去で古い)権威にすがっているままじゃ、およそ無理ですよ。「芸術」は。このないものねだりは、永遠の循環。しかも私が憤慨するのは、氏の「世間の中に転がっている仕事をやる」ことへの嫌悪、見下し。顔を歪めながら。このわがまま。直言すれば、下働きに身を挺する人々への慈しみが根底に無い人間が、芸術を語ることも、関わることも私から見ればおよそ不可能なものである。
このわがまま。「クリエイティビティ」を子供の精神のままで羨望だけした。広くあるのは、茂木健一郎氏がはまっている、不能感。循環。