芸術の可能性/不可能性

「空間」ができていない(つまり「芸術」成立を欠いた)美術作品の一つの代表例が、写真を参照し丸写しにした所謂フォト・リアリズム絵画。制作者の写真に依存した(往々にして反省性の全く機能しない=快楽だけ伴う)「全能感」により、自動的にそうなる。「平板」化。

このフォト・リアリズム絵画制作に伴う快楽は、麻薬的でもある(自身の意思では、止める契機を持ち得ない)。実際に、当事者に絵画制作の「手応え」は無いのだが、純粋快楽と化したその身体には、切断をもたらすものは外部から決して現れない。

その(不可能な)切断をもたらす真のものが「芸術」であると、言い換えても良いですね。

[追記]

今度は、「写真」そのものについて語ると、例えば金村修が私にこう語った(会合した雑談の場で)。「写真は誰にでも撮れますからね」。私は即答するべきだったが、「(芸術成立した写真は)誰にでも撮れない」と。

「写真」の(または「写真家」の)全能感を、はっきりと私は(予め)否定しておくべきであった。

金村の私への言葉は、「写真は誰にでも撮れる」が、「絵画は彫刻は違う」という意味を前提している。私からすると、これが(少なくとも平成以後、今日までの)美術の全能性を留保するものなのだ。

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