全体主義的・芸術破壊の衝動

私が現場で美術制作をしていて、一番厄介だと思うのは、自然を賛美して、かつ「芸術という領域」に心酔し諸対象を語る鑑賞者。富裕層や発言力のある著名人だった場合、より厄介だ。こういう勢力は、私の経験では「芸術の本質」を排除して「芸術」=「自然」という還元的思考の全体主義的方向を持つ。

疎外論的思考・傾向ですね。「芸術」に人間の本性の解放を見るが(幻視)、「芸術の本質」をそこから排除しているという困った性格。(芸術という)「他者性」の排除。「多様性」を称揚している場合は、より重症な方向になる。

「芸術という領域」に心酔し諸対象を語りながら、その主体に中核的に秘められているのは、実は「芸術破壊」の衝動。

「現代美術」また「現代アート」と呼ばれる領域は、この芸術の破壊衝動(の集合化)をうまく成立させているという言い方も、これら主体による産物の嘘なのですね。そうではないものを私は美術史上、この領域の中心に見ている。逆に「芸術」=「自然」(あるいは「デザイン」)という上記趨勢は傍流になる。この中心は、この全体化された機構の中で、簡単に言えば「目立たない所」にある。

これに関係がある参照。

[東京芸大廃止論、改め]ポップカルチャーのススメ|加藤 豪 #note https://note.com/naar/n/n8617e12b3aa8

[補遺]

上記、「芸術は目立たない所にある」に関連して。

近代の病というのがあり、それは他者を「呼びかけ」によって糾合しようとする方向。演説とか、それによる狂熱という自己の身体エネルギー発散の方向ですね。何か新しいモードに何でも呼応した。現代はもう違うのでは、という私は認識。反対に糾合ではなく、拡散の方向が正しい。

今や古風な糾合する主体は、戸惑うだろうが。習慣的に自嘲したり。

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