神野公男さんを悼む
以下に対して、日本の現代アートの類例で言うと、私自身が有力なコマーシャルギャラリーを自分からやめようとした際に、最初は「ここより良いギャラリーは日本にはないよ(私の所属時は自社ビルで確かにスペースは天井高もありどこよりも大きかった)」という諭しから始まり、最終的に「土下座して謝って戻りたいと僕に泣きついてきた作家もいたよ」という「脅し」にまでに至った。ギャラリーHAMの故・神野公男氏。コロナ禍の入口に亡くなったが、私はそれ以前からずっとSNS等で批判をしていた。その業界的本質について。
参照。
美術家はそんなことに振り回されていずに、やるべき大事なことがあるんですよ。「修練=アスケーシス」。
まあ、惚れられていたということですね。おそらく自分のナルシシズムに合致したと。商売人というにはコレクター出身の資産家で、読書家でもあり趣味人の延長でギャラリーを始めたという傾向が強かった。文化人類学者・丸山静の弟子。しかし、業界的に陰で有力だった。
商売人としては、その当時として結果として有能だったとは言える。趣味と実益が合致した(例えば草間彌生の例。しかし大儲けしたかというと、それも若干違うと思うが)。しかし、草間彌生は将来残らない作家でしょう。長いスパンで見ると。正統的な「芸術」は成立していない。同時代的な(=デザイン的な)「目利き」ではあったと思うが、例えば神野さんが所有して扱ったゲルハルト・リヒター、ルシアン・フロイドなどを、私は芸術成立していないと見るので。
神野さんは「新左翼」であり、元「関西ブント」。そして「反米」であった。アメリカのアートはほとんど扱わなかったが(エドワード・キーンホルツ、ドナルド・ジャッドは例外)、二十世紀後半以後のアートの名実ともに覇権はアメリカだということは言葉で強く認めていた。しかし、今の私から見ると、その中核にある芸術成立しているロバート・モリスやエルズワース・ケリーを理解できたかというと、分からなかったと思う。そういう悲しさがある。神野さんが好きなマルセル・デュシャン等の「デザイン」との違いが。これは、他の現在の美術業界人(美術家・美術批評家・美術館学芸員)にも多く当てはまる事項。
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