ソクラテス「自己への配慮」
産経ニュース@Sankei_news·1時間
コロナ行動制限「効果があったのか」 麻生財務相が苦言
https://sankei.com/article/20210921-HF5GJ4PBONPKZJODQEWCKFDX2A/…
「外で飯を食うな、人に会うな等々、制限をいつまでされるおつもりなのか。その根拠は何なのか。本当にそれが必要で効果があったのか。私にはなんとなく、ちょっと違うんじゃないかという感じはする」
https://twitter.com/Sankei_news/status/1440163084098674702
私のこれまでの「コロナ禍」期間の体感だと、私の年齢の周辺あるいはその以下は、基礎疾患があったり肥満がある人は、ちょっと気をつけた方がよいという感覚ですね。あるいは喫煙も。
zakzak@zakdesk·9月18日
肥満男性は重症化リスク15倍 年齢や基礎疾患の有無にかかわらず…ワクチン接種で軽減できるか 吉村知事も呼びかけ
https://www.zakzak.co.jp/soc/news/210918/dom2109180001-n1.html
https://twitter.com/zakdesk/status/1439140639061512195
Facebook日記より。
加藤 豪
2015年1月17日
アテナイの裁判所と、ソクラテスの(アテナイ市民全体に対する)羞恥を与える応酬。
フーコーの「自己への配慮」が(現代において)優れたものとなるのは、それが純粋に「自己と自己との関係」において、あくまで主体の内部で問われることが(基礎として)考慮された時である。神を持ち出さず、聞く主体に致命傷だけを与えて立ち去る。それ以上「監視」をしない。(相手が倒れたかどうかも確認しない。打ち込まれた針(=「あぶ」としてのソクラテス)が、どの程度の時をへて主体に作用するかなどという矮小な計算も)。
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フーコー『主体の解釈学』1982年1月6日の講義 第1時限
まず最初のものは『弁明』の二九Dにあります。この部分でソクラテスは、自分を告発した人々や裁判官を前に自らを弁護し、一種の架空の口頭弁論を行なうなかでつぎのような反対に対して答えています。彼は「恥ずべき」状況に目下身を置いているといって非難されます。告発の内容は、こういってよければ次のようになるでしょう。おまえがどんな悪いことをしたのかはよくわからないけれども、とにかく裁判を受けることになり、告発を受け、有罪判決を、おそらくは死罪の判決を受けかねないような生活を送っていたことは恥ずべきことでした、と認めてしまえ。どんな生活かはよくわからないが、こうした審判をへて死刑の判決を受けかねないような生活を送っていたことがそもそも恥ずべきことではないか。これに対してソクラテスは、この部分でこう答えます。反対に私は、こうした生活を送ってきたことを大変誇りに思っております。かりに別の生活を送れといわれたとしても、私は断るでしょう。つまり私は自分が送ってきた生活を大変誇りに思っているので、たとえその償いをしろと言われても私は認めないだろう、ということです。以下がその部分、ソクラテスの発言です。「わたしは、アテナイ人諸君よ、君たちに対して、切実な愛情をいだいている。しかし、わたしが命に従うのは、むしろ神に対してであって諸君にではないだろう。すなわちわたしの息のつづくかぎり、わたしにそれができるかぎり、けっして知を愛し求めること(哲学)を止めないだろう。私は皆さんに[勧告し]、いつ誰に会っても、諸君に指摘することを止めないだろう」。そして、彼がもし有罪とされなかったときに行なおうとしている教え、これは告発を受けるまえにすでに行なっていたのですが、これは何でしょうか。彼は例によって出会った人にこう言うでしょう。「なんと、世にもすぐれた人よ、君はアテナイという、知力においても、武力においても、最も評判の高い、偉大なポリス(都市国家)の一員でありながら、ただ金銭を、できるだけ多く自分のものにしたいというようなことに気をつかっていて恥ずかしくはないのか。評判や地位のことは気にしても、思慮と真実には気を使わず、たましい(いのちそのもの)をできるだけすぐれたよいものにするように、心を用いることをせず、考えてみもしないというのは」。つまりソクラテスは、彼がいつも言ってきたことをふたたび呼びかけます。自分が出会い呼びとめた人たちに、断固としてそれを言い続けようとしているわけです。君たちが気にかけているものは、財産や評判など山のようにある。なのに君たちは、自分自身のことは気にかけないのだ。そして彼はこう続けます。「もし諸君のうちの誰かが、これに異議をさしはさみ、自分はそれに[自分の魂に、真理に、理性に(M・F)]心を用いていると主張するならば、その者をわたしは、すぐには去らしめず、またわたしも立ち去ることをせず、これに問いかけて、しらべたり、吟味したりするでしょう。このことは老若を問わず、誰に会っても、わたしの行なおうとすることであって、よそから来た者にも、この都市の者にも、そうするでしょう。しかしどちらかといえば、この都市の者に対して、よけいにそうするでしょう。あなたがたは、それだけ種族的にわたしに近いわけですからね。つまりわたしが、こういうことをしているのは、それが神の命令だからなのです。そしてわたしの信ずるところでは、諸君のために、このポリスのなかで、神に対する私のこの奉仕以上に、大きな善は、いまだひとつも行なわれたことがないのです」。