服を寄付することは果たして慈善に繋がるのか?ー衣服が最終的に行き着く先とはー
最近、ユニクロなどの衣料品店に置かれているリサイクル箱に服を寄付したり、もう着なくなった衣服をメルカリやヤフオクなどに売ったりしている人をよく見かける。
こういった行為を行う人の理由として、売ることで生活の足しにしたいだったり、捨てるのはもったいないから、はたまた途上国や貧しい地域に住んでいる人に寄付したいなど様々な理由が考えられる。
しかし、いずれにせよ直接買い手に手渡しでもしない限り、一度自分の手から離れてしまった衣服が最終的にどこに行き着くのか、あるいはその服たちが一体どういう未来を辿っていくのか、知っている人はあんまりいないんじゃないかと思う。
実際、私もその一人だ。
しかし先日、ある映画を観て、服を寄付することは果たして慈善に繋がるのか?必要な支援のあり方を考え直すきっかけをもらった。
映画の名前は
「ザ・トゥルーコスト ファストファッション真の代償」。
ファストファッションが及ぼす社会への影響や、近年の消費のあり方の見直しを訴えたドキュメンタリー映画である。
その中で、ある国で服がゴミの山のように積み上げられ、子供達や男性が売れそうな服を探している場面が映し出された。
そう、この山のように積み上げられた衣服たちこそが、私たち先進国が手放し、あるいは寄付してきたものである。
善意の気持ちで寄付した衣服たちが、同じような慈善で送られてきた衣服たちに埋もれ、かえってゴミと化してしまったのだ。
そしてそれだけではない。
先進国から送られてきた衣服のおかげで、地元の誇り高き服飾会社が次々と倒産しているという。
生き残っていても、国内の衣服を生産するのではなく、先進国に輸出する為の安価な服を作らされているのだという。
映像ではあるがこういった現実を目の当たりにした時、
胸が張り裂けそうになり、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
世界各国から大量に送られてきた衣服の山を映像で見た時、私たちが善意だと思って行ってやっていたことがかえってそういった国の人たちを苦しめていたこと、そして、恵まれた地域に住んでいる私たちがいかに思い込みで事を進めていたか、いかに自分勝手だったかということを思い知らされたような気がした。
これこそ偽善行為なのでは?とも思った。
少し考えれば分かるはずなのに、どうして今まで気付くことができなかったのか、
そこにこれまでそういうことに疑問を一切持ってこなかった自分にも腹が立った。
この山のように積み上げられた服を見て、
私は2年前に行ったキリバス共和国の人たちのことを思い出した。
キリバスは、日本よりもずっと下の方、ニュージーランドやフィジーに近い島国である。
海抜3メートルしかない小さな細長い国で、人口も日本の10分の1程。
非常にこじんまりとしているが、気温も人もとっても温かい国である。
私は2年前、大学の研修で2週間キリバスに行った。
その中でも特に印象的だったのが、多くの人が裸足で生活していたこと。
ましてや幼稚園や小学校ではほとんどの子供達が裸足だった。
別に靴が不足しているという訳ではない。
この国の伝統なのだと、そう市長さんは言っていたが、そのせいで足を怪我する人もいて、そこから病気になって亡くなる人もたくさんいるという。
だけど、どの人に尋ねてみても履くことに意味を見出していなかったり、それどころか、靴なんていらないという風にさえ思っている人がほとんどだった。なんで裸足じゃないの?と聞き返されさえもした。
「裸足が良いから裸足でいるのに、裸足だからといろんな国から靴も履けないような貧しい国だと勘違いされ、毎年靴が大量に送られてくる」と。市長さんは少し怪訝な顔をして話してくれた。
このことをふと思い出し、そのエピソードが少しだけ見ていた映像の、古着が積み重ねられた服の山と重なった。
途上国の人や貧しい地域に住んでいる人々にとって、「1番良い支援のあり方って何なんだろうか。」「本当に必要な支援は一体何か」という問いに、改めて正面から向き合う必要があると強く思っ
その為には、誰かに賛同するだけでなく、自分でも情報を集めたり、一度現地に足を運んで現状を知ることが支援のあり方を考えるうえで重要な一歩だと思う。
先進国の身勝手で一方的な支援ではなく、「支援のコミュニケーション」ができれば、世界規模の問題の解決の糸口が見つかる可能性や世界各国の絆が深まるのではないかとも。
今日はこの辺で~グンナイ。🌙