自分の居場所。
アメリカに来て5日が経とうとしている。まだ5日、されど5日。帰国まで大体280日前後だろうか。毎日新鮮にしたい。そんな気持ちをもって毎日を過ごしている。
今日は日曜日。
一緒のシェアハウスに住んでる友人達が全員クリスチャンなので日曜の教会に誘われて初めて訪れたけれど、良い体験だった。クリスチャンじゃなくても誰でも参加できるらしい。
楽器を演奏してクリスチャンソングを歌ったり、無料でドーナツやコーヒーをもらったり、暖かいコミュニティスペース。自己紹介コーナー等もあり、すぐ新しい友達もできた。
参加してみて、宗教(キリスト教)の本質は、「世界を創造した神がmightyで絶対的」という考え方よりも、神が創造した普遍的な世界でその下にある人が「いかに隣人を愛して、救えるか」みたいなところにあると感じた。
神父様が人種や民族、言葉、貧富の垣根を超えて全ての人々は平等に尊厳があるという趣旨の事を言っていた。
僕は今アメリカに来て、移民(言語の壁)×人種(アジア人が比較的少ない地域)×セクシャリティのマイノリティ性を抱えているけれど、教会のような誰でも受け入れてくれるコミュニティの大切さを感じる。(セクシャリティに関しては、言及されてなかったので寛容に受け入れられるかは実際の所分からないです。)
留学している地域では、日曜日は教会の集まりだけではなく、地域の人々と一緒に夜ご飯を食べるイベントが毎週ある。ローカルかつインターナショナルな知り合いがたくさんできるし、地域の人々はご飯をたくさん食べさせてくれる。初対面の挨拶をした後、満面の笑みで僕の話を聞いてくれる彼らを見ると、全ての垣根を超えて僕の事を愛そうとしてくれるのが分かる。「決して1人じゃ無いんだよ」と優しく語りかけてくれる。
アメリカの人々はこういうコミュニティをたくさん持っている。1人にはなれるけど、孤独にはならない。
日本では自分が例えどんな存在であっても無条件で自分の事を認めてくれて、愛してくれるコミュニティを探すのが大変だと思う。
もし自分が何か抱えていても寂しさは無くならなくて、小さく死ねない。だから小さな死を何回も自分の奥に溜めて、二度と戻らない大きな死を選んでしまうなんてこともある。1人と孤独が隣り合わせのような感覚。僕もかつてセクシャリティを誰にも話せずに悩んでいた時にずっと思っていた感覚。
諦めのようなnoteにはしたくない。自分が愛をもっと見せられればいいのにな。ちゃんと隠さず自分の事が言えるような社会にしたい。どんな自分でも受け入れられたい。
僕がnoteを始めた原点は、1人じゃないって事を知りたかったから。人の体験を読んで、それで自分は救われた。
このnoteを読んでいる人が孤独を抱えていたら、自分は1人じゃ無いって思って欲しいし、全力で力になりたい。そんな気持ちをずっと胸の奥に抱えてる。