短編小説 / 雨宿り
木曜の昼下がり、十七歳の少年は喫茶店のソファで一人、苦い珈琲を飲んでいた。
意味を持たない学生服。
財布だけをつっこんだカバン。
通知の来ないスマートフォン。
誰に話しかけられることもなく、また話しかけることもなく、窓の外を眺めては珈琲を一口飲む。ただ現実に落ちこぼれていた。
自分は何がしたいのか。何をするために今、生きているのか。大人という大人に腐るほど吐かれた言葉が頭を巡り、全てが分からなくなっていた。人生で何かをしなければ、という漠然な不安だけが彼に押し寄せていた。
「勉強すれば何とかなるよ」
学歴社会で育った親にそう言われても、正直説得力を感じなかった。そもそも親の言葉に有難みを感じたことなどなかったし、感じていたとしても受け入れようとは思わなかっただろう。それでも大人の言うことに間違いはないと過信し勉強はある程度した。その勉強でさえも嫌になり、面倒くささと人生への漠然とした落胆で二日前に学校を退学した。勿論、親にはそんなこと言えない。故に彼の行動は現実逃避と化している。まだ温い珈琲をまた一口飲む。息をつく。彼の心は冷めていた。
死にたい。どうせすることないんだから。
喫茶店の中は、店主と彼の二人だけだった。カウンターの棚上に置かれた音質の悪いラジオから、知らぬ声が聞こえるだけの空間。彼はその空間をかろうじて好んでいた。
ふと、ラジオ越しに知らぬ声がこう言った。
「よく大人は、『人生をかけて何かしらを成し遂げろ』と言いますが、これは良くない教育です」
教育学の専門家か何かだろうか。年寄りの男声だった。
「人生をかけて成し遂げたいことっていうのは、かなり重大なことです。成し遂げたいことの選択を誤ったら、人生を棒に振ることだって有り得ます。いくら一途な人間であっても、人生を通して同じ感覚を持つことなんて有り得ませんから。それに人間ってのは、欲求の塊です。成し遂げたいことを成し遂げたその先には、また成し遂げたいことが必ずあらわれます。仮に、人生をかけて何かを成し遂げたとして、その次に見つけた目標を成し遂げようと思う人は、恐らくいないでしょう。それであれば、もっと小さなことでも、たくさんのことを成し遂げた方が良いんです」
店主は俯いて皿を拭き、ラジオを聞いているようではなかった。
成し遂げたいこと。そんなもの、今の僕にはない。
彼はカバンを持ち、席を立った。
「あ、お会計ね。五百円です」
彼は何も言わず、五百円玉を店主に渡して店を出た。
「またおいで」
外は小降りの雨が降っていた。街を歩く人々は傘をさし、足早にどこかへと消えていく。彼は、誰に何をとも言わずに、雨に濡れながら歩き出した。
街は、静かに彼を睨んでいるかのようだった。
どうせすることないんだから。
勉強すれば何とかなるよ。
人生をかけて成し遂げたいこと。
彼の頬は、雨と涙でぐちゃぐちゃだった。
雨、街、ビル。
仕事、学校、夢。
将来、人生。
生、死。
ただどこかへと歩いた。雨にまみれ、一人で。彼の細い身体から出てくるとは思えない量の涙を流し、またその涙の何倍もの雨に濡れ、気付けば隣町まで歩いていた。
ふと横を向くと、小さな踏切がポツンと見える。赤いランプが点滅し、カンカンカンと音が聞こえる。
死にたい。どうせすることないんだから。
漠然とした負の感情は、彼の脳内で増え続けた。
…そっか。あの踏切のど真ん中へ歩けばいいのか。
彼はゆっくり、路地を曲がって踏切へと歩く。躊躇いはなかった。遮断機の前で立ち止まる。電車はすぐ横まで迫っていた。彼はぐちゃぐちゃの頬を上げ、左足を一歩前へ踏み出した。
「待って」
彼の右腕を誰かが掴んだ。誰もいない線路の上を、彼の目の前を、ガタンゴトンと電車が行く。彼は後ろを振り返ると、そこには髪の短い女性が立っていた。彼女も傘を持たず、前髪から雨粒が滴っていた。
「ねえ、何考えてんの」
女性はそう言い、じっと彼の瞳を見つめた。
「来て」
女性は掴んだ右腕を離さず、踏切と反対方向へ歩いた。彼は何が起こったかも分からず、引っ張られる右腕を見つめながら歩いた。
着いたのは、誰もいない公園だった。屋根が付いた休憩所のベンチは少し湿っていて、二人はそこに腰掛けた。
「ごめん、タオル持ってないな」
「…大丈夫です、全部大丈夫です」
「大丈夫じゃないよね、絶対。死のうとしてたし」
「…っ」
彼は立ち上がり、溢れる涙を堪えながら彼女を睨んだ。
「ほっといてください。あなたには関係な…」
「ほっとけないよ。あんたのその顔見たら」
彼女も少し泣いているようだった。
「…お節介って思ってるよね。ごめん。知り合いでもないのに話しかけて。でもさ、あれ見ちゃったら話しかけるよ、流石に。まだ若いのにさ、駄目だよ。あんなこと」
彼はじっと彼女の瞳を見つめた。彼が人間の瞳を長く見つめたのは、久しぶりだった。
「僕が死のうが生きようが、あなたには関係ない。どうせ変人だって思ってるんでしょ?平日の昼間に学校も行かずにって。僕が変人だってのは僕が一番よく知ってるから。それに、まだ若いのにって。僕は大人の、そういうところが大っ嫌いなんだ。だから、もうほっといてください」
彼女もじっと彼の瞳を見つめていた。
彼は一つお辞儀をし、立ち去ろうとした。
「…俺よりましだよ、あんた」
彼の歩みを止めるかのように、彼女がそう言った。彼は不思議な目で彼女を見ていた。
「あんた、俺よりもずっとましな人生送ってるよ。そうやって正直に自分自身を吐き出せてるしさ、羨ましい。それにさっき大人って言ったけど、俺もまだあんたぐらいの歳だよ」
「え、でも」
「高校には行ってない」
彼は彼女の内を悟った。
「…そうですか。あなたはあなたで大変かもしれないけど僕ほどじゃない。間違いなく」
「どうしてそれが分かるの。あんた、俺の全部も知らないのに」
「…それはあなただって一緒だ。僕の全部を知らないくせに」
「自分勝手だ」
彼がそう言って彼女の方を振り向くと、立っていたはずの彼女は、その場で崩れるように座っていた。
「…っ」
雨の音に遮られていても分かるくらい、彼女は泣きじゃくっていた。
「…ごめん、あんたの言う通りだ。俺が悪かった」
彼女は湿った袖で顔を拭い、ゆっくり立ち上がった。
「俺のことをどれだけ自分勝手って思うかは任せる。ただもうわかってると思うけど、世の中には俺みたいな人が溢れるほどいる。それだけは忘れるな」
彼はまだじっと、彼女の瞳を見つめていた。
「それともう一つ。あんた…」
そう言いかけると、彼女は彼の頬を拭い、キスをした。
「あんた、美しいよ。誰よりも」
雨は降り続ける。彼女は泣きながら笑みを浮かべ、立ち去った。
翌日、彼は行くあてもなく、またあの喫茶店に入った。客は誰もいないようで、店主が一人、彼を見ていた。
「いらっしゃい」
昨日と同じソファに座る。じっとメニューを見つめる。
「…珈琲、ください」
昨日はメニューを指さしていたが、今日は違った。彼は何も変わっていないのに、自然と自ら人へ話しかけた。店主は何も言わず、笑顔で珈琲を淹れてくれた。
「ありがとう…ございます」
一口飲む。息をつく。
「…あ、あの」
彼がそう言いかけると、店主は静かに彼を見た。
「何か?」
「…平日の昼間に珈琲飲みにくる学生って、僕、こんな変なことしてるのに、なんで何も言わないんですか?」
「あ、ああ」
店主はそっと言った。
「変だって決めつけるのは良くないからね。人には人の『当たり前』ってのがあるから」
「…そっか」
また一口、珈琲を飲む。
「…では次のニュースです」
会話が終わった店内に、ラジオの声が響いた。
「昨日、当局の番組でゲスト出演されていた、教育学者の佐々木さんが昨夜、持病で亡くなりました。昨日の番組で放送された内容を一部お送りします、どうぞ一
よく大人は、『人生をかけて何かしらを成し遂げろ』と言いますが、これは良くない教育です。人生をかけて成し遂げたいことっていうのは、かなり重大なことです。成し遂げたいことの選択を誤ったら、人生を棒に振ることだって有り得ます。仮に、人生をかけて何かを成し遂げたとして、その次に見つけた目標を成し遂げようと思う人は、恐らくいないでしょう。それであれば、もっと小さなことでも、たくさんのことを成し遂げた方が良いんです」
それは、彼が昨日聞いた、あのラジオだった。
「…」
彼は席を立ち上がった。
「あの、お会計…」
彼がそう言いかけた時、店主は言った。
「いらないよ」
「え、でも…」
「君、昨日と顔が違う」
「…」
「早く行きな。きっと待ってるよ」
「…はい」
店を出た。今日は晴れていた。
昨日の雨で街には水溜まりが出来ていた。彼は走った。あの公園へ走った。
溜まった雨水が跳ねる。彼は笑った。
「あんた、美しいよ。誰よりも」
「…何が『美しい』だ。美しい生き方があるもんか」
彼はこの日、初めて「死にたくない」と思った。