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小説 / ノンフィクション
プロローグ
遠くでクラクションが響く。
最後はいつもの様に、何もしない夜になった。
空いた窓の奥から春の風を感じる。知らぬ間に季節は巡って、もうすぐ夏がくる。その夏もまたいつか終わって、秋がくる。雪が降り、春一番が吹いてまた、ひとつ歳をとる。
その頃の自分のことは、まだ想像できない。
寂しい。
「大切な夜には必ずすることだから」
次にこの家へ来るのはいつになるだろうか。
淡い色のネイルを足の爪に塗りながら、アンナは寂しさを隠していた。その顔を見て、少しずつ少しずつ、実感が湧く気持ち悪さにひとりで微笑んでしまった。その微笑みも涙になる。寂しいけど、自ら変えようと決めた生活に後悔はなかった。
「あんまり泣いてもどうしようもないよ?」
ごめん、と返して逃げるようにベランダに出て、煙草に火をつける。
きっとこの夜を忘れることはないだろう。
これからもアンナたちの生活は、まだすぐには終わらない。かたちは違えど俺も。そう思えば寂しくない気はするけど、寂しい気もする。今日は色んなことを正直に想いながら眠ろう。
どんな感情も、俺だけが抱ける特権だから。
一 空気の味
まずい。
「嫌いならなんで来たの。最初っから断ればいいじゃん。なんで?下心?」
その場一時の感情で怒るようなタイプじゃないと思ってたのに。実際今までそうだったのに。
「いや、今更そんなのないから。ってか、そうやって疑うんなら何で誘ったん、」
「は、何それ」
他人事であってもこういう出来事が頭から離れなくなる。
やっぱり昔のことは忘れられない。
「ねぇ、ふたり、さ、一旦、ね?」
「一旦なに?」
やっぱりきつい。
「わかった、俺実家帰る。それで解決ね」
「なんで、待ってよ」
「はぁーあ、何も変わってねえな」
玲くんがそう言ったその瞬間に、そう、何も特別には思わなかった、ひと言。誰も何も言わず、アンナの強い足音だけが、リビングと階段と、その先の玄関を鉛色に染めていく。
「…どう、すんの?」
「平気です」
「呼んでこようか?」
「いや、どうせすぐ戻ってくるから」
じめついた夜。いつもより重い空気は雨のせいか、私たちのせいか。なんてね。
「…あのさ、私たち途中からしか聞いてなくて、なんでこうなったの、」
本当はこんなテンプレみたいな展開は嫌い。けど、何も進まないから。
私が進むしかないから。
いや、でも、さすがに電話くらいはしてみた方が。
尋人がそんな顔で見てきたので適当にそれっぽい顔しとこ。今そんな優しさは要らないと思うけど。正直、これは二人間の問題であって私には関係ない。それでもこのままじゃきっと二人とも歩き方が解らなくなって、いつかお互い永遠に足音がつかなくなる。
玲くんは俯いていた。彼は彼をどれくらいのみこんでるんだろう。
「まぁそうだよね、」
尋人とまた目が合って、それからゆっくり玲くんを見た。彼は素直だった。尋人も多分、同じこと思ってると思うけど。
「実は、」
二 甘い、しょっぱい
「実は、元彼なんだよね」
「へぇー、元彼か」
「…うん、え、何?」
言っちゃった。私としたことが。
とはいっても言う時はいつかくるわけだし、それを見越したら今言ったことは正しい。
「いやぁ、あんまし恋愛とか想像つかないなって思ってね」
「そうかな」
「高校?」
「うん、半年くらい、付き合ってて」
知り合ってすぐってわけでもないのに、舞央ちゃんにこうやって聞かれると小っ恥ずかしい。
「てか何で呼んだん、気まずくないん」
「…まぁ、別に。喧嘩別れとかじゃないし」
「今一瞬躊躇いの間が生まれてたよ」
「気のせいですぅ」
食器を置く音が心地良いリビング。炊き込みご飯の匂い。いつもの家とは違う空気。
味噌汁の火加減を気にしながら、お椀を四つ出して記憶を辿り、そう、四つ。
「え、じゃあさ、別れようってなったのはさ、アンナから、」
「いや、向こうから」
そんな会話をしているうちに尋人くんも部屋から降りてきて、その時が迫ってきているのに実感がない。
「夕飯?」
「まだー、でももうできるから手伝って」
「あぁ、はい」
明日は私も大学とバイトがあるし、正直今日の休みはのんびりしたかったけど尋人くんは授業準備がヤバいとかで何もしないし、舞央ちゃんは買い物こそ行ってくれたけど彼氏とデートで疲れたとか言って結局掃除もお皿洗いも全部私なんだよな。別にいいけど。一番年下だし。
「舞央さん、今日は出かけてたみたいですけど」
「ん、デート」
「でたー、デート」
尋人くんはわざとらしく言う。
「尋人くん、新しい人なんだけど」
「ああ、前言ってた、」
「うん、今夜来ます」
「…え、今夜?」
空気が固まったみたいで気持ちが悪い、この感じ。
「今夜っていうか、もう来ると思う。玲くんっていうんだけど、私の元彼」
「元彼、」
「高校の時の人なんだってさ」
「へぇー」
舞央ちゃんがお皿を並べて、また少しにやけながら言った。尋人くんは思ったより、驚いてるみたい。
「な、何?」
「いや、アンナも恋愛とかするんだーって」
「え、尋人くんまで?」
いつもの和やかな空気になった土曜日の夕方。
単調なインターホンのチャイムが鳴った。
「お、来たかな…はい、」
『…すいません、伊草です。アンナ、さんは』
スピーカー越しに聞こえたその声は間違いなく彼だった。急に現実味が湧いてくる。
「います、今開けますね。…アンナ」
ちゃんと会うのは二年ぶりくらい。
自分が決めたことは自分で責任を持て、笠間。苦しくはないけど、ちゃんとしなきゃ。
「うん」
階段を降りた先の玄関。ドア越しに姿が少し見えて、現実が差し迫る。それから玄関を開けて、
「久しぶり」
絶対に重たいバッグ、そのバッグよりは軽そうなギター、昔より伸びたくせ毛、逆に新品なのが想像つかない古着、お互いに『綺麗だね』なんて笑いあった二重。
長い長い、ほんの数秒。
「…荷物」
「あ、あぁ、」
それから先は目を合わせなかった。
「お疲れさま、よろしくね。あがって」
「もうすぐご飯だから」
そう言って二人は早々と玲くんを家へ入れた。荷物を持って彼の部屋(になる予定の部屋)へ行く。
「とりあえずここ置いとくね」
「ああ、」
「細かいことは後でいいよ、ご飯にしよう」
「はい、」
「…なんで敬語なん」
不思議。ずっと二人だと思っていた彼へ、今はそう思わない。冷たいけど、それがいいと思えるからいい。
「えーと…改めて、いらっしゃい。舞央です、一応ここでは年長者だからまぁ、何かあれば私に」
「舞央さん、もしかしてインスタ、」
「あ、そう、ごめんね、勝手にフォローしちゃった」
「いえ、平気です。よろしくお願いします」
「うん、よろしくね。じゃ、尋人」
「はい、宮尋人です、よろしく」
「あ、尋人さん、えっと、伊草玲です、今日からお世話になります」
「玲くん、お世話になるのはお互い様だからね。うちのルール。まあ、細かいことは後で話すとして…とりあえず、ご飯食べよう」
私たちは四人で初めて「いただきます」を言った。もうすぐ七時になるのに、外はまだ明るい。
「あ、アンナ、昨日だっけ、言ってたやつさ」
「うん、インスタかな?」
「そうそう。これ画像設定しないの?」
「あー、いや、うん、別にいいかなって」
「そっか、拘ってるのかなって思っちゃった」
「拘ってる?」
「そう、流行ってるのかなって。生徒に聞いてもわかんないからさ。アンナは大学生だし何か知ってるかなーって」
「あー、いや、今の中高生だったら俺の世代よりももっと使いこなしてると思いますよ、」
「でもアンナは若いじゃん?玲くんも。僕らの世代もインスタとか色々やってはいるけど、やっぱり流行りで変わったりするだろうからさ」
「確かに、私も尋人に似てるかも。何となく始めてって感じだし」
四人になったらからといって特にスタンスを変えない二人に少しだけ驚いた。
会話の中でも玲くんはどきまぎしていない。初めての空間なのに、もう何年も生活を続けてきたみたいに感じる。
「んー、例えばなんすけど、俺はインスタのアイコンは設定してるけどYouTubeはしてないっす。見る専だし。そういう人多くないすか?」
「あー」
「それがアンナは全部ってだけなんじゃ?違う?」
初日から元カノに平然と話しかけたぞ、こいつ。別にいいけど。いや、むしろ今後を考えたら有難いけど。
「…うん、そんな感じ。単に気にしてないだけだけど、逆に変な拘りに見えるなら設定しよっかな」
この生活は既に始まっているのに、止まっているような気がするのは多分、私だけだ。
二人きりになったのはその後すぐだった。
「手伝うよ」
「え、いいよ、疲れてるでしょ」
「平気」
夕飯の匂いが残るキッチンで玲くんと二人。面白い。自分から誘ったのにね。
「ん?ね、これどこ?」
「…え、あ、そこの棚」
懐かしい。玲くんの匂い。
「…荷物は、もう平気?」
「うん、一応片付いた」
それから私がお皿を洗って、玲くんがそれを拭く。手が重なるなんてシーンは作りたくないから、端を持って慎重に。あのシーン最初にやったの誰なんだろ。誰でもいいけど。
「そっか」
同じ向きで立ってるから分からない、彼の表情。
何を思ってるんだろう、なんて。
「…二人と仲良くなってくれてよかった」
「ああ、いい人達だなって思ったよ」
こんなにも説明のつかないあやふやな感情を抱いたのは初めてだった。何となく分かってはいたけれど、やっぱり、
「玲くんも、元気そうで」
食器棚を開ける彼の後ろ姿。うなじ、耳の形、少しよれたシャツ。色んな形で色んな香りと、味と、記憶と。
懐かしい。でも、
「玲くん、」
「ん?」
でも。
「私のこと、もう好きじゃないよね?」
三 青い欠片
「好きじゃないでしょ、さすがに」
知り合った頃から、アンナという人は何を考えてるのか分からない所があると思っていた。ただ、彼女のようなタイプがノリで元彼に同居を誘うとは到底思えない。
「ですよね、じゃなきゃ一緒に住もうなんて言わないですもんね」
「そう、でもさ、振ったの玲くんらしくて」
「えっ?」
こうして語りかけてくるのは僕を探っているのか、遊んでるのか、試してるのか、それとも。ただ最も問題なのは、前提として僕は特段この人に興味がないということ。そしてこの人も恐らく僕に興味がない。
「それでアンナから誘ってってさ」
「…え、だとしたら今二人なのやばくないですか?」
「行ってみるか、チューしてるかもよ」
「は?舞央さん!?」
音を立てないように階段を降りて、バレないようにダイニングキッチンへそっと顔を出す。反対側からの光景はさぞ滑稽なものだろう。何をやってるんだろうか年長者二人して。当のアンナと玲くんは…流石にそういう雰囲気ではなかった。
「あの、さっきのはどっちなんすか」
「どっちって?」
何なんだこの人。
ニコニコでこちらを向く舞央さん越しに、アンナと目が合った。舞央さんがこうやって遊んでくることはたまにあったから特段何とも思わない。びっくりはするけど。
「あれ、どしたの二人して」
「あ、いやー、アンナと玲くんまだいるかなーって。ちょっとお酒飲もうよ、玲くん飲める?」
「あ、飲めます」
あ、そのテンションで押すんだ。
気づけば日付がまわる頃まで話してしまった。舞央さんはアルコールが入ると仕事の愚痴か彼氏との思い出話しかしなくなるので、アンナが先読みして寝る方向へ進めてくれた。何だかんだアンナもそのまま寝てしまって、結局殆どの時間が玲くんとの対話だった。というかそれがしたかった。
「バンドかー」
「そりゃあ反対しますよね。ドラマとかでよくあるシーンは誇張してないんだって、自分の身で知るなんてって感じですけど」
「いいじゃん、そういうのも、勢いある人じゃないとできないよ」
伊草玲。この人の生き様は、どんなものなんだろうか。今はまだ、大人である、ということしか分からない。
「…あ、実はなんだけど舞央さん、ご両親亡くなってて」
「え、そうなんですか」
「うん、でも内緒だよ。いつか本人からも話されるだろうけど。だから親への愚痴とかさ、無理に我慢するのは違うけど、ね」
「…はい、でもなんで」
二人で廊下の壁に寄りかかって会話をする景色は、歪んだ日常だった。階段の下、中途半端な位置の床に置かれたスルメを食べる。もし明日に走馬灯を見るなら、これくらいが案外丁度いいのかもしれない。
「んー、なんだろ。もう大丈夫かなって。まだ、会って何時間かだけどさ」
そう言うと彼は、優しく笑った。
「嬉しいです」
何年か前の、大学生だった頃の自分とはまるで違っていて悔しい。
「あのさ、玲くんは…なんで、なんで来ようって思ったの?」
「なんで、」
「あぁ、いや、アンナから誘われてさ、嫌だとか、思わなかったのかなって」
玲くんはハイボールをひと口飲んでから笑顔を消した。
「…いつか、いつかちゃんと、謝りたくて」
自分に言い聞かせている。彼がアンナとの間で埋めた感情や言葉がどんなものだったのかは知らないし、そもそも埋めきれているのかも分からない。でもそれ以上は聞かなかった。知るべきではないとか、そういうことでもないんだけど。
「…そっか。じゃ、また明日」
「え、尋人さん?」
不思議な顔でこっちを見る玲くんへ、「おやすみ」とだけ挨拶をしてからその場を後にした。
果たして僕がここに居ることは正解なんだろうか。なんてね。
「…おやすみなさい」
明日は何を話そう。
四 照らされて
何を話そうか、なんて。
「綺麗だね、ギター」
友達じゃあるまいし、毎度会話にまで気をきをつかってたらキリがない。生活を共にしてるんだから。
「手入れとか大変じゃない?私も昔ピアノやっててさ」
「へぇー、ピアノ、」
「うん、小学生の時とかだけど。五年くらいかな」
「多いですもんね」
私のパソコンよりも間違いなく長い間使っているのに、それでいて綺麗なそのギターに、自然と見惚れていた。
「ん?」
「…あ、いや」
彼は変な顔で私を見ていた。
好きに何でも話すなぁこいつって思われてるかな。昔尋人にも、そんなこと言われたっけ。
「あ、うん、凄い尊敬する、私。そうやって好きなことできてるの。作曲とかもやってるんでしょ?」
「まぁ、一応…でも、なんか好きな曲にどことなく似てる感じになっちゃうんですよね。大体『オリジナリティがない』って言われて終わりっす」
「オリジナリティか。私もよく言われるよ、出版社の人に。『こんなの誰でも書けるじゃーん』ってね。じゃあお前書いてみろやって感じだけど」
「はは、それはそうかも」
「そんなのばっかりだよ」
私が適当に作ったインスタントコーヒーを二人で飲みながら、今日はアンナも尋人も各々出かけているから初めて、玲くんと二人きりで話す日になっていた。
「プロスポーツの取材記事とかはさ、大体担当が決まってて、そういうのならいいんだけど。フリーだとどうしてもね」
「大変なんすね、みんな」
二人きりだし、アンナのことも聞きたかったけど、まだ早い気がして聞かなかった。
「でも、玲くんは幅があるから、羨ましいな。どうにかできるもんね。文字と写真だけよ。写真だって私じゃないし」
「んー、」
「ん、まぁ、いいんじゃない、好きにやればさ。プロじゃないんだし」
「…プロじゃなきゃいい、のか」
あっ。
「俺、先風呂いいすか」
「あ、うん、」
玲くんの顔が気になって頭から抜けなくなる未来。
「玲くん、」
「…はい」
そっか。プロ。プロフェッショナル。そうなんだよな。プロがオリジナリティに縛られる必要はないし、アマが自由にやっていいなんてこともない。当たり前だけど。
ひょっとしたら玲くんは、私よりもずっと大人なのかもしれない。大人で、醜い自分を知っている。
「アンナのこと、嫌いになったらちゃんと言ってね。私に」
今の私がかけるべき最大限の言葉は、これだと思った。正解なんて知らない。
「はい、嫌いにはならないと思います、それで振ったって感じでもないんで」
お風呂へ行く玲くんの後ろ姿、私と彼が残した気まずさ。
「そっか」
耐えられなくて部屋に籠った。
「玲くんのこと、まだ好きって言ったら変だよね」
「別に変でもいいんじゃない?ってかいつ帰ってきた?」
「いや、そうじゃなくてさ」
下を向いて表情は分からない、けれど声から弱さが伝わってきた。アンナらしくない、なんか。
「好きなの?まだ」
「まだとか言わないで」
「…はい」
さっき自分から『まだ』って言ったじゃん。
「好きでも嫌いでもない、普通でも、ない…言葉にするの難しいけど、玲くん見てると昔のことばっかり浮かんで」
「だろうね」
「あぁーっ、こんなはずじゃなかったのに」
「…アンナ、」
『なんで玲くんを呼んだの?』
聞いてみたかったけど、やめた。それは二人の問題だから。堪えるべきだ、と黙って、
弱くなっていくのがわかる。
「ねぇ」
アンナの目元が気になる。変な気持ちになっちゃうから、今は救いたい。アンナのことも、私のことも。
「そんなに頑張ったって意味ないよ。昔のこと後悔したって消えないんだし」
これは決して慰めじゃない。本音。
こういう時、私は絶対に慰めたりなんかしない。
『そんなに頑張ったって意味ないよ。昔のこと後悔したって消えないんだし』
そうだよ。アンナはきっとそんなこと、私に言われなくてもわかってる。跳ね返ってきたその言葉に一番襲われたのは私だった。
座ったベッドの上でとまらない鼓動を感じる。
大丈夫。生きてる。私もアンナも。
「そうだよね、ありがと。ごめん急に」
「ううん。でも付き合ったらすぐ言ってね」
「だからないって、も〜」
呆れ笑うアンナに安堵を抱いた私は、更に苦しくなってしまった。皆同じ人間なのに、こんなに違う。
この感情はきっと、私にしか分からない。
五 乱反射
「なんで俺をここに呼んだのかな、って」
ついにきたか。
正直、当事者へ直接聞けないよね、いや、少なくとも軽々と聞いていいことではないし、でもきっと彼女なりの何かがあってってことだよね、なんてことを舞央さんと昨日だか一昨日だかに話してたところだった。舞央さんは気づいてないのか、気づいてたとしても多分気づいてない振りをするだろう。
「えー、なんだろ。これっていうのは無いんだけど、なんて言ったら怒るかな。少し前まで遥歌くんっていう人と四人で住んでて、その人が彼女さんと同棲するからって出てってね、尋人くんも私らも何となく嫌な人数だね、やっぱり四人がいいよねって話してたの。だからって人数合わせが理由ではないんだけど」
お皿を拭きながら話すアンナの表情は僕らからは見えない。
「仲良い人呼びたかったからさ。その方が楽しいし」
「そっかー、もっとがっつり理由あるかと思ってた。アンナ地頭いいし」
何秒だろうか、静寂。
アンナが静かに息を吸って、吐いて、
「…地頭」
「あ、いや…なんだろ、もったいないなって、普通に」
「普通?」
この何週間か、知らぬ間にアンナの中には膨れ上がった感情があったと悟った。ただの生活だけなのに、いや、だからこそ感じていたのだろう。
「普通って、何?」
僕らはこの家に住んで、ご飯を食べてお風呂に入って、笑って泣いて、何でもできる。それでいて、周りの目とか知らぬ間に強要された言葉とか、そういう事に捕らわれて、気がつけばもう自分自身すら、知らない誰かになっている。
「いや、急にそんなこと聞かれても分からん、でもなんか、もったいない。この前話したインスタのこととかさ」
「それはそれでも良いって言ってたじゃん、何?」
二人とも、正直言って、正直じゃない。
もっと受けいれていいのに。
「嫌いならなんで来たの。最初っから断ればいいじゃん。なんで?下心?」
「いや、今更そんなのないから。ってか、そうやって疑うんなら何で誘ったん、」
「は、何それ」
「ねぇ、ふたり、さ、一旦、ね?」
こういう時冷静でいられるのは自分の長所だと勝手に思ってるけど、舞央さんみたいに声をかけられる程ではなかったりする。このひと言できっといつも通りに、
「一旦なに?」
ならなかった。
「わかった、俺実家帰る。それで解決ね」
「なんで、待ってよ」
「はぁーあ、何も変わってねぇな」
才能とか、もったいないとか、普通とか。若い、青い、なんて言葉に集約できてしまうけれど、二人は二人なりに頑張ってる。でもそれだけじゃ上手くいかないのが世界だったりする。悲しいけど。
「…どう、すんの?」
舞央さんも、焦ってはいなさそうだけど冷静では到底ない様子で玲くんを伺っていた。
「平気です」
「呼んでこようか?」
「いや、どうせすぐ戻ってくるから」
それが本心かどうかは分からないけれど、『俺にはアンナのことがわかる』そう言いたいのに言えない、そういう風に見えた。正直凄く、子供に見えてしまった。あんなに大人だと思ったのに。
「…あのさ、私たち途中からしか聞いてなくてさ、あの、なんでこうなったの、」
その後、どうにかして前に進もうとする舞央さんを落ち着かせて一度、電話をかけてみたけどやっぱり駄目で、結局玲くんに口を割らせてしまった。でも彼から出た言葉は予想通りではなかった。多分、舞央さんも同じこと考えてると思うけど。
六 エゴサーチ
「アンナと別れる時に、ラインで言ったんです。別れたい、って、電話とか直接とかじゃなくて。別にその前喧嘩してたとかでもない、ただ単に友達に戻った方がいいかな、って。重かった訳じゃないけど背負えなくなった気がして。その後も学校で何回か目が合ったりしたけどクラスも違うし、なかなか話せないままそれっきりで。だから、ムカつくとかじゃないけど、何でなんだろって思って聞こうと思ってたけどずっと聞けなくて、って感じで」
やっぱり大人だ。
俯きながらも落ち着いて話す玲くんの姿は間違いなく、私よりも大人だった。嫌われたかな、なんて心配より、今はもっと変わってほしい。
「それでさっき聞いたんだ」
「はい。なんか、昔からアンナ、自分が才能あるとか頭いいとか思われるのが嫌みたいで」
「そんな感じだよね」
「忘れてました、完全に。…だるい」
多分、玲くんの中で生きているアンナと、今この家に住むアンナとは別人。それくらい人は、
「…いつだっけな、あれ」
玲くんはあまり変わらずにじっと、そっぽを向いて尋人の声を聴いていた。
「『自分がない』って言ってたんだよ、アンナ。それがなんかずっと頭の中に残って離れなくてね」
今度は少し目線を動かして、でも尋人は決して玲くんを見ない。彼らしい。
「『色んな人から『地頭良いの羨ましい』とか『絶対苦労しないよね』とか言われて、それって別に私じゃなくてもそうだし、私は言われても全く嬉しくない』って。そう言ってた」
「いつものアンナですね」
「昔のアンナも、そういう話を誰かにしたりしてたのかな、」
玲くんの空気が止まる。
同時に玄関が開く音。躊躇ったけど、私も尋人も聞こえてないふりをした。
「もう、違うよ。きっと」
そう言い捨てて歩いていった尋人の背中を見ながら、玲くんは静かに話した。
「俺が自分しか見えてないのは自分でもよく分かってるつもりなんですけど…凄いですね、尋人さんも舞央さんも」
「凄くないよ」
「…凄いとこしか、知らないだけだよ」
「大丈夫?」
絶対大丈夫じゃないアンナに話しかける尋人の声が、家の中を繋げていく。
「私さ、子供の頃よくお母さんに『もっと周りを見なさい』って怒られたの。自分勝手で友達と喧嘩ばっかりしてた。でも、私はお母さんのこと大好きだったし、抗うつもりはないけど、『周りを見てどうするの?』ってずっと思ってた。今も変わらず思ってる。私が書いてる記事も、他の人でも書けるじゃんって思うけど、それでも私が書いてるんだからって」
視界がぼやけていくのがわかる。
「周りを見てると、自分を失いそうになるの」
「舞央、さんが?」
「…言っとくけど私、弱い人間だからね?」
彼は多分、私のあのことを知ってる。生活がストップしたあの頃を思い出して、いつもなら嫌な感情たちも今夜に限って、そう思わない。
「意外です、舞央さんからそんな言葉がでるなんて」
玲くんは優しい声で言い残してアンナのところへ行ってしまい、すれ違って戻ってきた尋人はいつもの様に笑った。
「尋人?」
「いいんすよ、これが」
「…なんか偉そうだな」
七 いつも決まって
「あのさ、俺、やっぱり、何も変わってないとか、地頭がいいとか、さっき言った言葉は撤回できない」
目が覚めた時、脳内に映るその姿が現実なのか夢なのか、分からなくなる事がある。
「はぁ、どっちだ今の」
綺麗な情景だった。
『じゃあ私も、許さないであげる』
この言葉を、力強く放したこの言葉を、夢だとは思えない。
きっと私を、『まだ知らない人』みたいに見ている。昔に喧嘩をした時、彼が私に言ったのは『俺は他人に興味がないから』だった。当時その言葉は本物だったろうけど、まるで今嘘になったみたいだった。
「でも、俺はそれがいいと思う。今から良い方とか悪い方とか分かんないけど、でも変わらないままでいいと思う。それがアンナの性格だし、無理に演じたって、それは誰かでしかないし、」
「うん」
「…逆に言ったらそれじゃ、誰でもよくなっちゃう、だから」
「分かった」
「じゃあ私も、許さないであげる」
「え?」
「はい、これでおあいこ」
彼が来てからずっとあり続けた、好意でも嫉妬でも懺悔でもない、自分でも意味のわからなかった感情を多少洗えたような気がした。
「ねぇ、明日餃子作ろっか。紫蘇入りの」
分かっていたけれど、こういう事は思い立った時に言わないとなあなあになるから。きっと。
「餃子、って」
「まだ嫌だ?」
「…いや、別に」
玲くんは、やっぱり分からん、みたいな顔で私を見ていた。
私が彼と住むことを選んだのは、全部が正解な訳ではなかった。でもいい。これが私たち四人の一部になるなら。そう信じる。
「もう寝よ、遅いし」
リビングへ戻ると、残った二人が親みたいな目で何も言わずにいた。
「あっ、さっきは勝手に…ごめんなさい、」
「いいよ、私は」
「僕も」
こういう優しさに、また私は救われる。
「でも私次の日予定あるから、ニンニク抜きがいいな」
「あ、僕も」
「え、玲くんニンニク苦手だったよね、」
「うん、」
今日も夜は更ける。
「あ、おはよ」
「おお、おはよう」
部屋を出たところで玲くんと会って、私は緊張しながら聞いた。何となく、お互いにまだ恥ずかしさを感じる朝。
「…今日の、晩ご飯、って」
ただ思い出のメニューを選んで、それを聞いただけなのに、なんだか告白してるみたいで面白かった。
キッチンの窓から射す日光が私たちを照らしていく。心地いい今日は日曜で、二人はまだ起きてこないみたいだった。
「あぁ、紫蘇、ちゃんと入れような」
八 それから
『紫蘇?』
「二人が付き合ってた時によく食べたんだって」
あの喧嘩の前と後とで何か変化があったかといえば特にはない。でも説明がつかない何かが、四人の中で知らぬ間に揺らいでいた様な気はする。
『へぇー。高校生だったんでしょ?その、』
「アンナと玲くんね。高二とか言ってた」
『そんな手作り餃子とか作るかな、高校生って』
言われるまで気が付かなかったけど確かに。
『ほんとに好きだったんだね。その二人は』
何気ない言葉に、何となく動いていた眼がとまる。
『ねぇ舞央、』
「…なに?」
『一緒に暮らさない?』
ベランダの壁にはりついた陽射しが眩しい。
『また早いかな』
「いや、そんなこと、」
なんだろ、この感情。
同棲したら、尋人とアンナと玲くんと私の生活は終わってしまう。少なくとも私の中では。
「んー、ごめん、考えとく」
『…うん』
干された洗濯物が風に揺れた夕方。帰ってきた尋人がリビングで欠伸をしている。
「ごめん、私そろそろ。またね」
そう言って電話を切り、サンダルをぬいでフローリングを裸足で踏む。
「邪魔でした?僕」
「ううん。ね、尋人さ」
「はい?」
「私が出てくって言ったらどうする?」
スマホをスクロールしていた尋人の手が止まった。
「…良いんじゃないすか?舞央さんの人生だし」
「え、いいの」
「ただ、」
私は彼の過去をそんなに知らない。まだわかりきれていないのに、彼は私を見透かすから怖くなるのは、今に始まったことじゃなかった。
「ただ?」
ガシャン!と、玄関から物音がした。続いて「やっべ…」という玲くんの声。部屋から降りてきたアンナと三人で玄関へ向かうと、服屋の袋とスーパーの袋を抱えて気まずい顔の玲くん。その下には私の靴…の上に落ちた卵のパック。
「…あ、その、」
あーあ、と呆れた顔で割れた卵を拾うアンナ、雑巾を取りに行く尋人、どうにもできず固まる玲くん、それを見て笑う私。
「玲くん、」
「…はい」
やっぱり私は、
「おかえり」