壁にあたまを打ち付けたい
そうしてこの記憶をなくしてしまいたい、というただただ恥ずかしい記憶というものがいくつかあって、ふとした瞬間に思い出してしまい、叫び出したくなることが月に何度かある。
本日、朝無事に息子たちが小学校や保育園に散っていき、平和に在宅勤務を開始した。午前に予定していた会議がひとつ相手側の都合でキャンセルになったために、ほっとひといき気軽な本をひらきいっとき休憩しようとした。
瞬間に、思い出してしまったのである!
* * *
あれはコロナで緊急事態宣言などが出始めて、都市機能がやや停止し、会社の会議がオンラインに切り替わり始めたころ。
それまで毎朝1時間40分かけて都内のオフィスに通勤していたわたしは、常時、たんねんに化粧をし、髪を整え、ストッキングをはき、しゅっとしたブラウスやスカートなどを着て出勤していた。
都会にはハイセンスでめかしこんだ人が多いであろうゆえに自分もめかしこまなければ恥ずかしいと思い込んでいたのであろう。
故郷(山陰地方)にも現・居住地(関東の消滅可能性都市)にもたいへんに失礼な思い込みであった。
とにもかくにも、当時はそうして毎朝7時過ぎに子を保育園に預け、
7時半すぎの電車に乗り、
9時半前に会社に到着し、打ち合わせやら作業やらに追われ、
ときおりLINEで夫とどちらが保育園のお迎えに行くかの攻防をし、
狙い定めた帰りの電車に飛び乗ってふたたび1時間40分かけて帰宅し、
夕飯の仕度をし(または買ってきたものを並べ)、
子の世話が終わったあとは深夜までふたたびパソコンをひらいて作業をしていたのだ。涙ぐましい生活である。
そんな日々から緊急事態宣言によって生活がガラッと変わり、自宅から半径2キロ圏内で生活するようになった。それまでの通勤距離は100キロ近かったので50分の1に縮小されたことになる。
それで不便なこともあるにはあったが、分刻みの予定からは解放されたし、「暮らしている、生きている」という感覚がリアルになったように思う。
と、それだけならよかったのに・・・
わたしはなにを思ったか、それから数カ月ものあいだ、オンライン会議にすっぴんパジャマ兼部屋着で参加するようになってしまったのだー・・・
しかも、ある温泉宿で部屋着として供されていたものを気に入って売店で購入し帰宅した、アースカラーの作務衣・・・
やさしい同僚やクライアントは誰も指摘しなかったが、
え、すっぴん作務衣?突然?出家?
と思ったことだろう。
なにより恥ずかしいのは、その行為が「コロナ禍の最初のころ気が緩んですっぴん部屋着でオンライン会議出てました☆彡」というSNSでもほほえましく受け入れられたアクシデント的なものとも言い切れず、
非常時に生まれる新しい社会的ルールを読み違えちゃったというだけでもなく(もちろんその二つの側面もあったのだけれども)、
こじらせ自意識の結果という側面を持っていた、という事実である!
わたしってばパンデミックでもこころ豊かに暮らせている郊外暮らしのバリキャリなのよ!みたいな自意識があったんじゃないかなあ・・・
つくづくおそろしいことである。
* * *
思ってみれば、叫びながら壁に頭を打ち付けてすべてをなかったことにしたいと思うほど恥ずかしい記憶は、わたしの場合すべてこじらせ自意識に由来している。
自分に正直にありのままの自分らしさを勇気をもって追及していると信じている自分は実は他者のまなざしを強烈に意識している、しかも自分ではそのこっけいさに気づいていない、という状態。
振り返って気づいてしまったときの恥辱ったらない。
じぶんじぶんじぶん。
ああ、はやく成仏してほしいこの自意識。