過去の自分と、未来の息子へ
思い返せば、これまでの人生のなかで、この感覚をなにかで表現したい、この一瞬の感情や情景を残しておきたい、という衝動にかられることが、たびたびあった。
小学生のころ、小説家になりたかった。写真や服飾に興味をもったこともあった。結局、二十歳くらいまではもっていた「自分にはクリエイティブ分野で優れたものがあるんじゃないか」という期待のようなあわい自信は、社会で生きることの慌ただしさのなかで、かき消されていった。
***
地方の中核都市で育った。
その地方のなかでは行政機関や医療・教育機関が集中しているけれど、たくさんの川と、なだらかな山並みにかこまれている街。私の原風景は、日本海側特有の湧き立つような大きな雲と、どこまでも広がる水田だ。
これまでに大きな災害もなく、太平洋戦争中の空襲もほとんどなかったけれど、バブルで沸き立つ好景気の余波も限られていたので大きな市場も工場もない。城下町に残る古い町並みが、日常の暮らしのなかに溶け込んでいる、
街も、文化も、人間関係も、ずっと地続きの街。
「ここでは、時間のながれかたが違うと思う」
と、特に大学進学や就職で外にでた知人友人が言っていた。
私もそう思う。日々の営みや暮らしが脈々と続き、文化として、その土地をあらわす空気みたいなものとして確かな輪郭を持つこの街に生まれ育ったことは、私の誇りでもある。
一方で、「知り合いの知り合いは知り合い」みたいな人間関係密度の濃さや、小学校から高校まで持ちあがりのメンバーが多数いるなかで「ここで人間関係失敗したら高校卒業して外に出るまでの人生終わり」みたいなプレッシャー(勝手に感じていただけです)はしんどかった。
生きづらくて、その苦しさを昇華して吐きだすことが私の救いだった。
だから、吐き出す方法は別に「文章を書くこと」じゃなくてもよかった。誰にも届かなくてよかった。
「誰か」に向けたものではなかったからなのか、県外の大学に進学して勝手に感じていたプレッシャーから解き放たれると、つきものが落ちたように表現欲は消えた(都会の刺激にかき消されたともいえる)。
その後私は、つたない大学デビューを果たし、今度は肥大化した承認欲求をどう満たすかという方向に舵をきったのでした。
***
そして私は今、36歳になった。
18歳で地元を出てから、いろいろな人に出会った。その都度反発したり共感したり、ごくまれに共鳴したりして、少しずつ自分自身が変化して、今は自分への期待も承認欲求も、ほとんど残っていないような気がする。
ほんとうに、やっとここ最近のことなのだけれど、自分をデキる人間ぽく見せたいとか、いいところ見せたいとかいった自己顕示欲(裏を返すと「そうじゃなきゃ恥ずかしい」という気持ち)もなくなった。
かわりに、できるかぎり、目の前の人間のその人らしさ、私という人間の自分らしさを意識しようと思うようになってきた。
そして、意識しようと努めるなかで考えたことや感じたことを、言葉で表現して、記録しておきたいと思うようになった。
それは、大切なことは忘れないようにしまっておきたいという理由と、以前の私のようにちょっと生きづらそうな長男が、数年後に私が書いた文章をネットで見つけて「こんなこと考えてる人もいるのか~」と誰のものとも知らぬまま少し気が楽になったらいいなと夢見るから(そのころ私のことばを素直に聞きそうにないし…)。
そして、パーソナルな領域ではじめたことばたちが、自分や息子の姿を借りた「誰か」にも届けば、とてもうれしい。