ハリーポッターのいる世界
こちらの記事にも書いたタイムバケットの実験結果があまりにも幸福すぎて、まったりぼんやりはじまった一週間は、長男の保育園最後の運動会で締めくくり。
いろいろあるけど、これでいいのだ!
なにごともない幸福
祝日で、子どもたちの保育園はおやすみ。夫の仕事もおやすみ。わたしはおうちで仕事。そんな一日。
おもてではつめたい雨がしとしとしとしと降っていたので、罪悪感ゼロで、一日家ですごすことに決めた。
子どもたちは一日中パジャマで、昨日出したふわっふわのじゅうたんのうえに素肌をすべらせて、気持ちがいい、と笑っていた。そうして寝そべって、テレビを見たり歌ったりしていた。
夜、ハンバーグをこねていたら、夫が、「特になにもなかったけどいい一日だったね。」と言った。わたしはそうだねとうなずいた。
似た者夫婦と宝くじ
ここ最近、つい宝くじを買ってしまうんです。
どうしよう。
この前の日曜日にホームセンターに行った。すいせんやチューリップの球根をいくつか買って駐車場を歩いていたら、宝くじ売り場。キャリーオーバーがいくらとか2億円この売り場から出ましたとかとかいううたい文句が風にたなびいている。2人ほど並んでいる。
な、なんか当たる気がする…!
ハロウィンジャンボ、買いました。
毎回、なんかそろそろ当たる気がする、と思って買ってしまう。そして10枚に1枚は当たると言われている300円ぽっちりお情けのように当たる懲りない人間がわたしです。
今日になっていそいそとカバンから取り出して、神棚にあげておいた。手を合わせる。それを見ていた夫が、
「いつか当たる気がするよな~。」
と言っていた。似たもの夫婦なのであった。
ハリーポッターのいる世界
秋晴れの空がすかっと広がっていて、開け放った窓から入ってくる風がそよそよ心地よくて、子どもたちは平和に保育園に行った、平日のある日。
仕事をする気にならなかったので、あたたかいコーヒーを飲みながら、あまいパンをかじりながら、うっとりするほど怠惰に午前中ずっとNetflixでハリーポッターの映画シリーズの7作目を見ていた。
ハリーポッターの本を読んだり映画を見たりするたびに、作者のJ・K・ローリングが書籍1作目を書き上げた当時シングルマザーで、娘は幼く親子で経済的に困窮していて、それでも必至にこの物語を書き上げたのだということを思い出す。作者がどのように生まれ育ち、どんな人を愛し、どんな暮らしをしていたかをインタビューなどで知るたびに、彼女が描き出したハリーポッターの世界を思い出す。
脱線するが、知人に、40歳くらいで、とても頭が良くて、素直で、誠実で、有能で、社交家の男性がいる。仮にKさんとする。Kさんは、かつてわたしの仕事仲間でありボスだった。
今週、Kさんとお酒を飲む機会があった。
ひさしぶりにじっくり話してつくづく思ったのだけど、Kさんとわたしは、いつもどうも会話がかみ合わない。
特にビジョンとか、人材育成とか、自分自身の生きかた・働きかたとか、そういう正解がないテーマであればあるほどかみ合わないのだ。
以前はその理由がなにかよくわからなかったのだが、最近は彼が理知的で前向きでモチベーティブな会話をしてくれるたびに、なんとなくその理由がわかる。
彼からは、失敗や低迷はすべて課題を見つけ克服するための良質な機会であり伏線で、努力でカバーできないことはこの世になにひとつなく、人と人との関係や社会でおこる事象の背景や要因はほとんどが理性的に合理的に「わかる」ことであり、成長しないことは怠慢である、と言われているような気になるのだ。
その思考がわたしと違いすぎるので、正解のないテーマではかみ合わないと感じてしまうんだな、きっと。
一般に、リーダー気質の脳を持つひとたちの多くは、無意識だとしても社会の事象や個別の物事に対して「これはもっとこうだといい!」という理想を持っているような気がする。
理想をもつことは良いことだ。理想と現状のギャップが課題なわけだから、理想がなければ課題解決できない。課題を見つけて解決していくアプローチは生産的で効率的で効果的だから、社会にも組織にも、うまく理想を描くことができるリーダーは必要だと思う。
でも、「人間」に対して自分の理想を当てはめて接してしまうと、自分も周りもしんどくなってしまう気がするんだけど、どうだろう。
だって、できないことって、必ずできるようにならないといけないのだろうか。人と人との関係や社会でおこる事象の背景や要因って、シンプルに構造化してわかったような気になっていいものなのだろうか。成長しないことは、本当に怠慢だろうか。
なんとなくだけど、Kさんの理論が成り立つ世界には、きっとハリーポッターはいない。ダンブルドアもハグリッドもシリウスもドラコもいないし、魔法は使えない。
どちらが良い悪いではなく、思考の癖の違いなのだけど、わたしは、相手と自分の違いをそのまま受入れたり、長所と短所が同居している人間の奇妙さとすばらしさに感謝したり、集団の生命と幸福の維持の仕組みが全体で調和されるように助けたり助けられたり、たいせつな誰かのダメなところを愛おしく思ったり、そういうことをそれぞれが完璧じゃないなりに積み重ねていける世界で、ハリーポッターのいる世界で、生きていきたいような気がする。
なんでKさんとかみ合わないのか長らく謎だったので、ハリーポッターをきっかけに今回仮説ができてうれしい。
秋の!大運動会!
秋晴れの素敵な休日、長男と次男の保育園で運動会が開催された。
もうすぐ2歳になる次男にとってははじめての運動会。ちびっこたちは朝一番のプログラムで、屋内で玉入れや遊戯やかけっこをして、平和に終了。愛想良しの次男のこの日の写真と動画があれば、とうぶんのあいだ癒してもらえる気がする。
そして年長の長男にとっては最後の運動会。
彼は1歳になりたてのころから保育園に通っているが、自我の芽生えが著しかった2歳以降は、お遊戯や運動会など非日常のオーディエンスがいる場で踊ったり歌ったりしたことがない(園児と先生だけであればやっているらしい)。オーディエンスとして我が子がお遊戯しているのを見ることができたのは、1歳半のクリスマス会で先生につられておしりをふりふり真顔で踊っているのを見た、たった一度だけ。それ以来、皆無である。
今年こそはと期待したわけではない(たぶん)のだが、数日前から息子とのあいだで「ダンスは嫌だけど・・・絶対に笑わないならちょっとならやってもいいけど」や「リレーは見せてあげるよ。あーくん早いからね」という会話があったので、わたしの素直な脳みそは、集団のなかでイキイキとたのしむ息子の姿を想像してしまったらしい。
こういうのは一度でも想像したらもうだめである。人間だもの。息子が楽しそうな姿、見たいんだもの!無意識や潜在意識がいちばんどうにもならない。
よせばいいのに、終わったら帰宅して家族でゲームしようとか、がんばったおつかれさまのおもちゃを買いに行こうとか、たのしい予定をさらに追加してそわそわそわ。
結果、コロナによるオーディエンスの人数制限が外れた初めての運動会だったこともあり、あまりの観客の多さに(とはいえ年中・年長児の保護者と親族が100人強だと思う)集合直後から目に見えてテンションが急落した長男は、終始テントのなか。
先生には、「今日は絶対にやらない。テントにいる。」と言い張ったらしい。
結局彼のプログラム全体への参加率は過去最も低く、な、なんと今年は、体操もかけっこも遊戯もリレーもすべてのプログラムに参加せず。むしろ途中から、記録係の先生のiPhoneを借りてみんなの写真を撮っていた(そうさせてくれた先生には心から感謝、最後に見せてもらったら躍動感あふれるいい写真が撮れていた)。
勝手に期待して勝手にがっかりしたわたしは身体的にだるんと疲弊して、帰宅後うつらうつらしてしまった。そうしたら、長男が毛布をかけてくれた。
そして夕方、ちいさな弟におもちゃの使いかたを教えてくれて、ねむる前には、ママ大好きだからと、わたしをぎゅーしてくれた。
君が大切だから君が楽しんでいるところを見たかったけど、いい一日だった。
いろいろあるけど、これでいいのだ!