「あなた」との暮らし、共に生きること
ある春の朝、息子たちを保育園に送る車の中で、年長になった長男に、
「誰と、何をするのがすき?」
と聞いた。
彼は保育園の先生に団体行動の苦手さを指摘されていて、年中のころ発達検査も受けた。結局診断はつかなかったが、週に2回療育に通っている。
なんとなく落ち着いてきたと感じていたが、年長のGW明け、かつてない壮絶な登園渋りが始まった。私は途方にくれて焦ったり寄り添ったりしていたが、その日は夫婦共に仕事を休めず、なだめすかして車に乗せたのだった。
私の問いに、彼は少し考えて、
「ままと暮らすこと。一緒にごはんを食べて、ぎゅーして眠ること。」
と答えた。
息子に、「あなたと生きていくことがすき」と言われたのだと思った。
帰りの車のなかでも仕事のあいだもそのことばをかみしめて、いつか息子に同じように言ってくれる誰かが、たくさんたくさんあらわれることを強く祈った。
***
あなたと生きる
当たり前だけれど、この言葉を使うとき、「あなた」という特定の相手をイメージしていると思う。
そしてもちろん、ただ隣にいて、食べて排泄して眠ることだけを指しているのではない。たわいもないおしゃべりをしたり、お互いの好きなこととか嫌いなこととかをわかりあったり、痛みとか哀しみとかやりきれなさをわかちあったり、そういうこころとこころの柔らかな交流を含む「生きる」だから、それって「暮らし」だよなあと思う。
安全であたたかで自分の人格が尊重されるすみかで、食事をして、夜はぐっすり眠る。そんな日々がより心地いいものになるよう工夫する。そんな心地いい暮らしをつくりあげること、一緒に楽しむことを、他者と共有する。
世界にはたくさんの人がいるし、いろいろなことが起こるけれど、なにがおこってもどんなときも、このひとだけは味方なのだと信じられるということ。そういう暮らし。
それってめちゃくちゃしあわせなことだ。
これまで36年間、いっしょに生きていける誰かとの出会いやわかちあいを渇望しながら、期待したりすれちがったり押し付けたり押し付けられたり、大切にされたりされなかったりして生きてきたから、だんだん、
あなたと生きる
この「あなた」には、頭に思い浮かんでいる特定の誰かだけではない、不特定多数の「誰か」も含まれるのだよなあということが察せられるようになってきた。
パートナーや友達や家族。
「あなた」を大切にするということは、「あなた」が大切にしている「誰か」のことも大切にするということだ。
「あなた」のしあわせを願うということは、「あなた」を大切にしてくれるかもしれない「誰か」がちゃんと「あなた」と出会えるように、しあわせでいられるようにと、願うということだ。
そういう抽象的な感覚が、いまとなっては、毎朝コーヒーを飲むお気に入りのマグカップみたいに、毎晩眠りにつくときにくるまる毛布みたいに、身近で手触りのあるたしかなもの、大切なものとして感じられるようになってきている。
「あなた」からつながる「誰か」
わたしが直接出会うことはないかもしれない。
わたしがなにか得をすることもないかもしれない。
「あなた」だけではなくて、そういう「誰か」のことも大切にすること。
この「誰か」の範囲を、どんどんひろげていけたら、きっと戦争も犯罪も環境破壊もなくなるのだということはわかるけれど、じゃあ自分の意識はどこまで広げることができるのだろう。
***
保育園に着くころ、長男が「ままは何が好き?」と聞くので、
「ままも君と同じだよ。」
と答えたら、彼は、
「考えてることおんなじだね。良い世界だな~。」
と言った。
追い立てられるように日々を過ごしていると、自分の感情や行動が、暮らしの心地良さを高める工夫なのか、扇動されて生まれた欲求なのか、わからなくなることがある。所有欲や無関心が、意識の広がりをはばむ。
私の意識はずっと狭い範囲に閉じていた。けれど今は、このちょっと生きづらそうな息子の未来にたくさんの幸運があるようにと毎日祈っている。
その祈りは、私の意識を、将来息子が出会うかもしれない誰か、生きるかもしれない土地、未来の社会にまで広げてくれた。
ママも、君と生きていくことがすき。君と、君が出会うかもしれない誰かと。この意識の広がりに、素直に応えていきたいと思う。