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勇敢なともだちと割れたお茶碗

やさしくて、賢くて、勇敢なともだちの話をしようと思う。
名前はひろちゃん(仮名)。
ひろちゃんは、20代後半のとき乳がんが見つかって、がんばって闘病した。今はもう会えない。

***

同じ年で、高校生になってはじめて出会った。
彼女はいつもにこにこしていて、姿勢がきれいな女性だった。

彼女には、「女の子」よりも「女性」という表現のほうがぴったりくる。
ほがらかなのに老成(というと怒られそうだけど)している、いたずらっ子のように笑うのに決して騒がしくしない。
誰かの悪口を言っているのを聞いたことがなかったし、いつも自分のなかに、自分のあたまで考えた、しなやかな意思や判断軸を持っている。
そんな、素敵なひとだった。

わたしたちは3年間、同じクラスにはならなかったけれど、吹奏楽部で同じパート(楽器)だったので、放課後はいつも一緒にいた。土曜日は部活があったので、土曜日の午前中も、たいていは午後も、一緒にいた。
そうして、お互いの家に泊まりあっこしたり、映画を見たり、好きな男の子の話をしたりした。

わたしが彼女のぜんぶが好きだったけれど、特に一緒にいて居心地がよかったのは、彼女がひとを品定めしなかったからだと思う。

中学生・高校生の頃、そして二十代になっても、もっと年をとっても、他者を品定めするひとっている。服装、容姿、肩書、経歴、人間関係、家庭環境などで、「このひとってきっとこうだよね」という無意識の評価を下して、特には距離を置いたり、馬鹿にしたり、見下したりする。
わたしはそういう人間を嫌悪しているけれど、わたしにもそういうところがあると知っている。いや、むしろ同族嫌悪なのではないかと思うくらいそういうふしがあって、なかなか矯正できない。
それくらい、人間という生き物の性質からして、ひとを品定めするという側面があるのだと思う(言い訳めいているけど、それはきっと生存戦略として)。

でも彼女にはそれがなかった。
今思えば、なんだか神様みたいだ。

***

大学生のとき、わたしはちょっと嫌な女だったと思う。
人より遅く社会人になったときも、ちょっと嫌な女になったと思う。

詳しく描写しようとすると、わーっと叫んで頭をがんがん壁にぶつけて穴を掘って埋まりたい衝動にかられるので、今日は書かない。

でも、わたしにはそういうところがある。
ひろちゃんのように「自分のあたまで考えた、しなやかな意思や判断軸」を持てなくて、一緒にいる人たちのなかで一般的な価値観や、身を置いている環境に、簡単に染まってしまう。場合によっては二項対立的な思考になってしまう。
これもなかなか矯正できないし、そういうひとはわたし以外にも案外多い・・・と思う(人間は群れで生きてきたから、これも生存戦略なのかもしれない、再び言い訳だけど・・・)。

とにかく、わたしがちょっと嫌な女だったとき、つまり会話のなかやちょっとした仕草のなかで、偏った認識に固執して特定の価値観につい否定的な反応をしてしまう人間だったときも、ひろちゃんはやさしかった。
「おちぼ、もっと自分にやさしくしないとダメだよ~。」
とのびやかに言って、わたしの話を否定せずに聞いてくれた。

大学時代にひろちゃんの進学先の街に遊びに行ったときなど、わたしは前日飲みすぎてへろへろで、「お前なにしにきたん?」状態だったのに、
「おちぼ、お肌が荒れちゃうよ~。」
と言って、最近覚えたというフェイスマッサージをしてくれた。そのあとお味噌汁を作って飲ませてくれて、あろうことかわたしはそのまま1時間昼寝をした。

わたしはそのあとアメリカに行って、3年間帰国しなかった。

東京の会社に就職が決まって帰国してからすぐ、共通の友人の結婚式があって、一緒に呼ばれて、旅行を兼ねて訪ねて行った。わたしたちは旅の間中くすくす笑いながらいろいろな話をした。
でも、どんな話をしたのか、何を一緒に見てどんな気持ちになったのか、もうあまり覚えていない。

その次に会ったのは、ひろちゃんの結婚式だった。
白無垢姿のひろちゃんはとてもきれいで、なにか特別なことを言ってあげたかったのに、
「あっついよ~。」
と言いながらけたけた笑うので、力が抜けてしまった。
披露宴では、わたしともう一人の友だちが友人代表でちょっとだけ話をしたのだけど、その内容も、もう思い出せない。

そのあとしばらくして、「そうだ、京都に行こう!」という計画をした。でもわたしの仕事が平日も土日も忙しくなって、平日休みのひろちゃんと予定を合わせるのが難しくなった。
このままだとなかなか都合をつけられなくて計画が流れてしまうから、と言って、ひろちゃんは当時わたしが暮らしていた街まで来てくれた。改札から出てきて、
「無事ついた~。」
と笑っていたひろちゃんの顔を覚えている。

当時の家の最寄り駅から30分ほど電車に乗ると、鎌倉に行けた。
翌日、わたしたちは鎌倉でレンタサイクルを借りて、たくさんお寺を巡って、陶芸体験をした。小さな古民家のようなおうちで、夫婦でやってらして、ひろちゃんは旦那さんのためにカップを、わたしは自分のためにお茶碗(カフェオレボウルのつもりだったのに焼きあがったものを見たらお茶碗だった)を作った。
夜は二人で居酒屋に行った。そのときはじめて、ひろちゃんがお家のいろいろなこと、ひろちゃん自身のいろいろな気持ちを話してくれた。なのに、わたしは酔っぱらっていて、その内容ももうほとんど思い出せない。

最後に会ったのは、ひろちゃんに癌が見つかって、地元の病院ではきっともうどうしようもなくて、お父さんと一緒に、東京の癌治療で有名な病院にセカンドオピニオンを求めに来ていたときだった。
東京で働いていたわたしは、病院帰りのひろちゃんと待ち合わせをして、東京駅のそばのオフィスビルの地下にあるお蕎麦屋さんでお昼ごはんを食べた。

ひろちゃんはウィッグがよく似合っていて、歩くときは杖をついた。

ごはんのあと、足湯ができる場所を見つけて一緒に足を浸けた(東京駅のそばの地下街に?ほんと?という感じだけど、確かに足湯ができる場所があったのだ)。ひろちゃんは、
「もっと早く病気が見つかっていたらよかったのかな~。でも、もうしょうがないし、がんばるよ。友達や知り合いの女の子たちにさあ、健康診断やマンモグラフィは定期的にやってねって、毎日を大切にしてねって、うちみたいなケースもあるからねって、伝える文章も書いてるんだよね。うちには、その義務があるような気がするんだよ~。」
と言って、高校生のときと変わらない、のびやかでやわらかい笑顔でにこにこしていた。
わたしはそのとき、ひろちゃんが書いているという文章に込められた彼女の想いが、なんだか遺言のような、縁起でもないような気がしてしまって、自分勝手に何か言ったと思う。ひろちゃんは、
「おちぼ、わたしちゃんと生きるから、安心してよ。」
と言った。

わたし達は、そのあと席を外して待ってくれていたお父さんと合流して、手を振って別れた。
会ったのは、それが最後だ。

***

メッセージでのやりとりは、ひろちゃんが亡くなる数日前までしていた。
ひろちゃんは、必ず1日か2日以内にメッセージを返してくれた。最後のメッセージは全部ひらがなで、さいきんきもちがわるくて、と書いてあった。

告別式は、結婚式の披露宴と同じホテルの、同じ会場だった。

高校生のときに何度も泊めてくれたひろちゃんのお母さんと、何度も送り迎えをしてくれたお父さんと、同じ部活の先輩でもあったお姉さんと、数年前に同じ場所で袴を着て満面の笑顔だったはずの旦那さんと、まだ1歳にもならないひろちゃんの娘がいた。大人たちはみんな笑顔で、
「ひろはがんばった!」
と言って、ひろちゃんが好きだったたくさんのもの、綺麗なものやうつくしいもので、会場をいっぱいにしていた。
ひろちゃんの娘は、むちむちの足をばたばたさせて、たくさんの大人にかわいがってもらって、にこにこしていた。ひろちゃんによく似ていた。

***

わたしは、今日この文章を書いていて気づいたのだけれど、本当には何もわかっていなかった自分を憎んでいる。
ひろちゃんと話したたくさんの言葉たちを忘れてしまっていることも。

これはもう自分のためでしかないけれど、わたしは、ひろちゃんと一緒に過ごした時間の空気がいつもやわらかかったこと、わたしを受け入れてくれてとても嬉しかったこと、そういういろいろな気持ちはずっと忘れない。
さらさらの砂を両手ですくって、そこからこぼれ落ちてしまった砂みたいに、ひとつひとつのつぶの形や重さはとりとめがなくても、一緒にたくさんの時間を過ごしたから、わたしのなかにはひろちゃんの場所がある。

そういう、ひろちゃんを好きだという気持ちは、伝わるだろうか。

***

ひろちゃんと一緒に作ったお茶碗は、大切にしていたつもりだったのに、数年前に割ってしまった。
割れたお茶碗は、いつも目に入る場所に置いていて、見るたびにひろちゃんを思い出している。

割れているのが悲しくて、もっといいかたちにできないかな、と思っていたら、市内に金継ぎの作家さんが住んでいることを知った。
昨日メッセージを送ったら、お直しの予約がたくさん入っているので完成が冬になってしまうかもしれないけれど、直せますよ、と言ってくれた。

うれしくて、うれしくて、今日、この文章を書きたいと思った。
わたしのなかにいるひろちゃんのことを書けてよかった。また書こうと思う。そうしたら、また会えるから。


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