ニューヨークでの寄る辺ない日々
2010年の秋から約3年間、ニューヨークで暮らした。
その後、2013年の春に帰国してコンサルファームで約9年間働き、2022年に退職して、シードのベンチャーに入った。
ものの、現在は無理をいって、業務委託にしてもらっている。いちおう個人事業主登録しているし、ちいさい会社の役員にもなっている(ちなみに、無報酬)けれど、約10年ぶりに、「〇〇(会社名)の落穂です」と名乗れない寄る辺なさを感じながら生きている。
それでも、ビジネスっぽい場面で自己紹介をするときに、そういう行動の結果や所属の変遷の表面的なところだけを切り取ってかんたんに伝えると、向上心が強くて、意識が高くて、英語がぺらぺらな、きらきらしたキャリアだと思われる。
そこで更に「子どもが2人いる」と伝えると、もう間違いなく、女性活躍推進と多様な働き方のムーブメントに乗ったきらきら事例の誕生である。
ほとんど収入のないときもある個人事業主だって、起業準備中なんですか〜?てなもんである。
それ、わたしじゃないんです。
ここまでの経緯を誰かにありのまま伝えたことがないので、この機会に、たくさんの幸運と偶然と出会いに感謝しながら、わたしの転機らしきものが何だったのか振り返りたいと思う(匿名バンザイ)。
1.わき目をふらなかった大学時代
大学進学で、地元を離れた。
進学した土地は地元から電車と新幹線を乗り継いで5時間の距離。
受験を頑張ろうと自分で決めた自己効力感に幸運にも望んだ結果がついてきた達成感と、同質性と人間関係密度の高い地元を遠く離れて感じる解放感で、わたしは浮かれていた。
浮かれたわたしが真面目に授業を受けていたのは最初の1年間ほど。
2年生になるころには軽い気持ちで始めたキャバクラバイトにのめり込んで、授業はほとんど欠席。頑張れば頑張るほど成績(キャバクラ内での順位)が伸びていくのが楽しくて、いつの間にか週6日出勤。わき目もふらずとはこのことである。
今振り返るとよくわかるのだけど、わたし、「自己効力感」と「達成感」の組み合わせ、つまり頑張れば頑張るほど成果がでるという環境にとことん弱いのだ。それはもう、勉強でも、仕事でも、恋愛でも。
とにかく当時は、週6日で働いて、テスト前に詰め込みで勉強しクラスメイトの7割くらいの単位を取る生活。
もちろん、それで卒業できるはずがない。
2.逃げの留学、ニューヨークへ
結局5年かかって、大学を卒業した。
なんとまあ就活はしなかった。わき目もふらず状態が長かったためか、自分がこれからの人生をどう生きていきたいのか、皆目見当がつかなかったし、実のところ一般的に就活で必要だと言われていたいろいろなこと(OB訪問とか、自己分析とか、エントリーシートとか、自己PRの練習とか)を、心底やりたくなかった。
ただし、就職しないことは怖かった。長らく乗っていた大きくて安全なレールから外れてしまうような、贅沢な恐怖心。
恐怖心を打ち消すため、5年生のとき店を辞めて、貯まったお金で公認会計士の勉強を始めた。経済学部だし、という安直な理由に加えて、どこでも、誰とでも、自由に生きていける力が欲しかった。
一応国家資格の勉強をしているのだし、という保守的なもう一人の自分への免罪符のおかげで、「脱線」ではなく「いざ、支線へ!」という感覚まで恐怖心がやわらぎ、ちょっと元気になった。
最初の転機は、元気になったしこれから長く苦しそうな勉強生活が始まるのだしと、卒業前に同じく留年した友人と卒業旅行に行ったこと。場所はニューヨーク。大学進学時より更に大きなスケールでアウトサイダーになれる感覚を知った。
帰国してからもずっと、その感覚が忘れられなかった。卒業後、改めてニューヨーク郊外で2週間ホームステイをした。ホストの女性は大学で教えていて日中仕事だったので、私はひとりでマンハッタンをぐるぐる歩いた。卒業旅行のときに知り合った日本人の学生グループの食事にも混ぜてもらった。うち一人が借りている物件で、ルームシェアの部屋が空いたという。
帰国するころには、ここに引っ越してきてもなんとかなる気がしていた。
帰国してすぐ、語学留学の手続きを始めた。
卒業旅行とホームステイを経てニューヨークという街が身近なものに感じられるようになっていたし、踏み出すべきだと思った。現状を変えたかった。焦っていたのだと思う。
店を辞めたのに、狂いまくった金銭感覚はなかなか元に戻らなかった。交際4年目に突入した水商売(黒服)をしている彼氏との変わらない、変えられない関係性も、自力ではどうすることもできなかった。
ここでも保守的なもう一人の自分が顔を出し、ただ語学留学するよりはと公認会計士講座を受けていた資格の学校で改めて米国公認会計士講座を申し込んだ。コース変更みたいなお財布に優しい制度はなく、ここまででキャバクラ時代にためていたお金はおおむねなくなったが、ルームシェア予定の日本人学生から現地事情を聞いて、食べていくくらいは出来そうだとたかをくくっていた。
準備はスムーズに進み、確か7月に帰国して、9月にはニューヨークに引っ越した。引っ越しの朝、彼氏と別れた。いつも強気で独善的で支配欲の強い5歳年上の彼は、同棲していた部屋で泣いていた。彼が泣くのを見てはじめて、心が通いあった気がした。付き合っている4年間ずっとひとり相撲をしている気がしていて、それはわたしに向き合ってくれない彼のせいだと思っていたのに、ひとりよがりだったのはわたしも相当だったのかもしれなかった。
結局、タフで立派な目標があったわけでもなく、冒険心や向上心に突き動かされたわけでもない。
わたしは、現状を力技でリセットするため(厳密には「リセット」はできないのだけれど)、そして自分がこれからの人生をどう生きるか考えるための保留期間を捻出するために、ニューヨークに行くことを決めたのだった。
3.寄る辺のない環境で自分と出会う
ニューヨークでの生活をひとことで言い表すと、寄る辺のない生活。
家族も友達もいない、まともにお金を稼ぐすべもない、安心できる肩書もない、何者でもない自分自身の足で「こころもとないなあ」「不安だなあ」と思いながらもなんとか立ち、誰の影響も受けない自分の正直な感情に耳を澄ませた。
そうしているうちに、これまで意識したことがなかった自分の劣等感、保守性、衝動性、エゴや優越感やプライド、先入観、固定概念の輪郭と中身が、くっきりと見えるようになってきた。
例えば、わたしは自分には特別な才能がないと劣等感を抱いている。
保険(今回で言えば米国公認会計士みたいな資格)がないと冒険できない保守性と、「これだ!」と強く思うと損得や優先順位なんてくそくらえ状態になる衝動性がせめぎあっている。
努力で結果をつかみ取ってきたと思いこんでいる節があって(幸運だったから、それ以上のなにものでもないのに)、エゴや優越感やプライドみたいな副産物が生まれている。
人を肩書で判断してしまうような、先入観がある。
人や女性の生き方について、口では偉そうなことを言っていても、深いところでは世間一般的な「正解」が固定概念になっている。
でも根っこはシンプルで、それなりに親切で、頑張り屋で、ナイーブで、常に変化していたい自分がいる。
人が「これが自分だ」と思っているのは、そのとき所属している集団や、繰り返してきた習慣や、近くにいるひとたちの思考や行動の影響を受けた「自分もどき」なのではないだろうか。
自分という人間の本当の輪郭をなぞる行為、確かな足場のない、不安で心細い環境下で出会う自分は、リアルな「わたし」だった。
同じように寄る辺のない環境を楽しんでサバイブして、世間一般の安定はないけれどたのしそうに生きている人たちにもたくさん出会った。
生きていくことは自分が思っていたより気楽なことなのかもしれないと、ぼんやりと思った。
4.いざ、経歴ロンダリング
約3年間の寄る辺のない環境を経て、わたしが最初の仕事として選んだのは、コンサルタントだった。
コンサルタントはブルシットジョブなどと呼ばれたりもする。実際そうだと思う場面も多い。でも、当然だけれど、ある仕事が社会においてどんな意味を持っていたとしても、その職業がそこで働く人たちのすべてを語ることができるわけではない。それはある人のひとつの側面に過ぎない。側面ですらないかもしれない。
コンサルタントは、起業や新規事業創出を当事者としてすすめていくほどには尖ったアンテナを装着していない、けれど誰かをサポートしたい、いろいろなものを見てみたい、自分を試したい、そしてあわよくば稼ぎたいという人間向きの仕事だと思う。向いていない人にはとことん向いていないし、うまく言えないのだけれど、よっぽど注意していないと生きていくうえでのとても大切な何かが損なわれていく気がするので、ずっといることもおすすめしない。
ただ、わたしにとっては最初の仕事として良い選択だったと今も思う。
就職後、おもしろいやらほっとするやらだったのは、面接で、面談で、雑談や飲み会で自分について話すたび、誰もがわたしを、向上心が強くて、意識が高くて、英語がぺらぺらな人間だと思ってくれること。
留年して5年間大学に通っていたことにも、評価してもらえるコミュニケーション能力はキャバクラバイトのたまものだということにも、ニューヨークではMBAを取得したとかじゃあなくただ語学学校に通って家庭学習していただけだということにも、私の英語力なんてほんとうにたいしたことないということにも、誰も気づかなかった。
じゃあ、学ぶって、就活って、なんなんだろう。
世間一般に評価されるような肩書きとか履歴書のなかみって、どれほどの意味があるんだろうね?
そう思いながらも、ちょっと話しづらいもろもろには気付かれないままよくあるパワーワードで語られていく自分の経歴をありがたくながめながら、経歴ロンダリング続け、ここまできた。
5.究極の自分を生きていく
何度か昇進した。結婚・妊娠して、産休育休をもらい、「子育て中の女性コンサルタント」という肩書も追加され、「女性管理職としてがんばって」という後押しもたくさんいただいた。
仕事はたのしい。
けれど、それ、わたしじゃないんです。という場面が増えてきた。
例えば、当然と言えば当然のことなのだが、管理職になり現場で「このひとが喜んでくれてよかった」と思える体験は減った。自分自身に経験や知見がない領域の案件を管理することも増えた。もちろん現場に経験豊富なメンバーはいる。でもわたしには手触りがない。なんだか、詐欺師になったような気がした。
かわりに、社内政治っぽいごたごたやコンプライアンス関係の手続きが増えた。説明のための説明をなんども繰り返し、誰かを笑顔にするための労働ではなく、怒られないための下準備や体裁を整えるための作業が増えた。
そういうプロセス込みで、大きなものごとを動かしていくことが好きな人には問題ない。でも、わたしはそういうタイプじゃない。ストレスが増え、小学生以来でていなかったチックがはじまった。もともとお酒はすきだけれど、お酒を楽しむためというよりも酔っぱらうために飲むことが増えた。
子どもとの時間も足りない。保育園とベビーシッターさんと夫との分担のおかげで子は育つ。
けれど、わたしはこの生活で誰をしあわせにできているのだろう、何を得ているのだろう。このままで、死ぬとき「いい人生だったな」って思えるのかな?
結局わたしは、お金よりも社会的な評価よりも、究極の自分でいたいのだ。
6.さいごに
そして、冒頭にもどって現在。
わたしは今、約10年ぶりに寄る辺なさを感じながら生きている。
もちろん、不安だ。住宅ローンだってあるし、子どもは二人いるし、夫は専業主夫になりたいと言っているし。不安にかられて、老後までの家計の収支を何度も計算する夜もある。
でも、今、わたしはとことんわたしだ。
納得できない、手触りのない仕事を続けていくのはつらい。できないことはできないし、苦手なことは苦手。でも、寝食を忘れて夢中になれることだってあるのだ。それに、わたしは、幸福というものはちいさな幸運の積み重ねだと知っている。それを知っているだけで、死ぬとき「いい人生だったな」と思える確率が上がるような気もする。
これからは、日々の暮らしの延長線上にある営みのなかで食べていけたらうれしい。子どもたちと、家族と、いっしょにいたいと思える仲間たちと。
ここまでの年月、何回かおおきな変化はあったけれど、不思議と悩みに悩んで「選択した」という感覚はない。もちろん当時は悩んでいた(特にコンサルを辞めるときは結構悩んだ)のだけれど、たくさんの幸運な出会いやちいさな決断の積み重ねによって、いつのまにかその状態になっていた。
その決断のなかであえてひとつだけ転機っぽいものをあげるとしたら、卒業旅行でニューヨークに行ったあと、改めて2週間のホームステイをしたことかなと思う。この2週間があったからニューヨークの暮らしをリアルにイメージできたし、寄る辺のない環境に飛び込むことができた。
最初から清水の舞台から飛び降りるような選択を自分に強いる必要はない。人間はそんなに強くないし、常に未来を見据えてベストな判断ができるわけじゃない。というか、きっと未来を見据えたベストな判断なんてない。今は今でしかない。
言い古された表現だけれど、現状を変えたければ、まずはちいさな一歩を踏み出すといいと思う。そしてここで大切なことは、「他の誰かがこう言っているから」「これが世間で一般的だから」じゃなく、それが自分にとって自然なチャレンジであるかどうかなんじゃないかなと思う。
贅沢ができなくても社会的に立派な肩書じゃなくても、究極の自分を目指すって、結構たのしい。