写真を撮るということは
これまでの人生を振り返って、
「ああ、あのときこうしておいて本当によかった」
と思うことがいくつかある。そのうちのひとつが、今年の1月にカメラを買ったこと。
はじめてのカメラはFujifilmX-T30にした。ミラーレス一眼。
Fujifilmしか使ったことがないので比べようがないけれど、カメラ越しに見る世界はきれいで、静かで、このうえなくひとりきり。
そうしてファインダー越しに見る「いま」に集中してシャッターを切っていると、普段あたまのなかに絶えず浮かんでくる、仕事のこと、長男の発達のこと、遠くに暮らす両親のこと、子どもたちの行事の用意や帰宅時間のこと、スーパーでの買い出しリスト、住宅ローンの返済に何年かかるかとか、ふとした拍子に思い出す十代二十代の頃の赤っ恥青っ恥や痛みなどなどが、ぜんぶ消える。
すべての映像と音が消えて、あたまのなかが空っぽになる。
そうしてやっと、いまここにいることと、残したいと思ったうつくしいものやすてきなものだけに集中することができる。
それが写真として残る。誰に評価されたいというわけでもなく、それだけで、自分のなかの創造力をすこしだけ信じることができる。
あるときそのことに気づいて、なんてすばらしいんだ、と思った。
わたしはいま、神奈川県三浦市に住んでいる。
いまのところ、子どもたちがちいさくて遠出はなかなかできないし、あれが撮りたい、これが撮りたい、という願望があまりないので、
もっぱら、仕事と家事育児のあいまにひとりで、この街のなかをあちこち歩きまわって写真を撮っている。
三浦市には、高台の畑と、広い空と、海とうつくしい入り江があって、港町特有の伝承や信仰の軌跡が残っている。
もちろんそうじゃないと言う人だっているだろうけれど、わたしにとってはここで出会う人々の気性はさっぱりしていて、ここちよい。ほどよくちかくて遠い。生き心地がよい。
* * *
ところで、もう半年間ほぼ毎日写真を撮っている。
ふと、写真を撮るということは、わたしにとってどういう意味を持つのだろうと考えた。
写真が好きなのか、カメラがすきなのか、この街がすきなのか?
たぶんわたしは、いま生きていることをたのしんでいて、
その発見と表現と記録の方法が、わたしにとってたまたま写真を撮るということだったのだと思う。
そして、この場所はその発見と表現と記録にちょうどいい街なんじゃないかなという気がする。