手を抜き、足を抜く
夫が仕事の関係で一週間いなかったたので、子どもが産まれてほぼはじめて、完全にひとりで二人の子どもの育児と、家事と、仕事をこなしました。
ええ、しんどかったです。
そんな一週間(プラス数日)の振り返り。やっと夫が帰ってきて、疲れ果てて書くnote。ひさしぶりにちょっとお酒が入ってるので、明日読み返してからアップしよう・・・
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ふだん、わたしと夫は、助け合って暮らしている。
わたしたち家族が住む街からお互いの実家までは飛行機や新幹線の距離なので、両親・義両親に「ちょっと子ども預かって~」ができないし、意図したような意図してないような経緯をたどってお互いにちょっと特殊な働きかたをしているので、幸か不幸かお互いの休みの日と働く日がばらばらで、どちらかが子どもの面倒を見ている間にもう一方ががっつり働いてくる、ということが可能なため。
そして、ふだんはどちらか片方だけが著しく多忙ということもない。
育児と、家事と、仕事。
今の「助け合って暮らす」スタイルに落ち着くまではいろいろあって、約6年前に長男が産まれてからずっと、ケンカしたり喧嘩したりたまに話し合ったりして双方の主張を理解しあい、妥協点を見つけ、試し、またファイトしてきた。
なので、きっとわたしたち家族の育児と家事と仕事のバランスは、常に「今」のものがベストなのだと思う。
ああ、なつかしきバランス、均衡、調和・・・。
夫不在でそれが崩れた一週間、思うところあったので書き残したい。
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まず、育休が明けて以降忘れかけていた感覚なのだけれど、ワンオペで子どもたちの世話をしている時間は、過ぎるのがめちゃくちゃ遅い。
例えば休日。保育園がない、恐怖の一日。
そろそろ15時くらいかな~。
な~んて思って時計を見ると、10時くらいだったりするのだ。うそだろ。
それはひとえに、自分の意思ではコントロールできない事柄が頻繁に起こるためだと思われる。
しかも、だいたいがこちらの肉体労働(床を拭くとか、着替えさせるとか、洗濯するとか、食事を作るとか食べさせるとか、追いかけるとか)か反復行動(同じ本を延々と読み聞かせるとか、同じ話に延々とあいづちを打つとか)を伴うので、脳が「こんなにたくさん自由意志によらない行動や情報を処理したんだから、当然5時間くらいは時間がすぎてるはずだろ」と誤作動を起こしているような気がする。
しかも、「きっともうすぐ15時」なんて甘い期待を抱いてまさかの10時(午後でさえない)だったりすると、がっくりきてしまって立ち直れない。
次に、これも忘れかけていた感覚なのだけど、ワンオペで子どもたちの世話をする一日は、あっという間に終わる。
前述の時間間隔と一見矛盾するようだけれど、「一日」単位で振り返るとほんっとうにあっという間なのだ。
確かにその一瞬一瞬の体感時間はゆっくりなのだけど、自分ひとりで内省する時間だとかぼーっとする時間だとかがないので、振り返ってみると、なんというか「貯め」の時間がなく、高速で朝と夜を繰り返しているような感覚に陥るのだと思う。
これがほんとうにしんどい。
現状に不安があっても、展望があっても、それを言語化したり具体的に計画したりする余裕がなければ、未消化のまま「できなかった、なにも為せなかった」諦めだけが積み重なっていきはしないだろうか。
それは、「こんなはずじゃなかった」という怒りや哀しみの感情にかわっていきはしないだろうか。
これまであつめてきたものを必死に削り出して毎日を生きていくような、どんどん自分がすり減っていくような感覚。
どんどん孤独になっていく感覚。
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たかが一週間だったけれど、軟弱なわたしは疲れ果ててしまって、この広い空の下、同じような感覚を味わっているひとたちはどれだけいるんだろう、と何度か思った。
子育て中じゃなくても、介護中だって同じような感覚に陥るのではないか。
仕事であっても、裁量権や自由に判断できる余白がぜんぜんなくて、でもとにかく仕事に追われている場合って、近しい状況なんじゃないか。
ちょっと立ち止まるとか、一息つくとか、視点を変えるとか、そういう時間や空間があるかどうか。
家庭のなかに、暮らしのそばに。
そういう時間や空間がある前提で、手を抜けるところは手を抜いて、孤独な状況からは足を抜いて、日々の折々で自分自身に戻ることができる、
そんな社会がいいよなあ、とつくづく思う。
もっといろいろ書きたいことはあったはずなのに、思い出せなくて歯がゆいけれど、今日はここまで。