世紀末でも生き延びられる伴侶を選んだ
ちょっと前に、仕事仲間や知人数名(男女比率は半々くらい、既婚率も半々くらい)とお酒を飲んでいたとき、恋人や伴侶に特に望んでいるものはなにか、という話題になった。
喧々諤々話し合ったすえに絞り込んだ選択肢は、次の3つ。それぞれが自分がいちばん重視したいものをあげることになった。
人間力
包容力があるとかやさしいとか思いやりがあるとか、そもそも気が合うとか、自分という人間との相性みたいなもの。
社会的地位
家庭環境や学歴や経歴や年収など、社会的尺度のなかで測られるもの。
肉体美
顔や背格好などの見た目や、存在のたたずまい・雰囲気が、自分の好みかどうか。
たいていの人は人間力と答えているなかで、
「おちぼさんは?」
と聞かれ、そのときわたしはしごく真面目に「肉体美」と答えたにもかかわらず、「またまた〜」みたいな反応をいただいた。
その反応は、わからなくもない。
だって「肉体美」をいちばん重視しているってちょっと人間としてやばそうな感じ。刹那的で独善的でルッキズム的なかおりがする。
けれど、なんべん振返っても、わたしが夫をすきのは、「人間力」や「社会的地位」にむすびつくなにかが理由ではない。やっぱり「肉体美」がいちばんちかいのだ。
今日は、あらためて、そのあたりを言葉にしてみようと思う。
***
夫は、ちょっと変わっている。
彼はカレーとミートソーススパゲティとラーメンがあればご機嫌で、衣類や装飾品にはお金をかけない。ひまさえあれば日光浴をして筋トレをしてゲームをしている。友だちはかなりすくない。ひとりでいつも楽しそう。
お酒は飲まない。タバコは吸う。俺はいつでもタバコを辞められるとむなしく豪語しながら、たまにトイレで吸って(便意がうながされるらしい)、においでばればれなのに、
「いや、吸ってない。そのにおい、俺のうんこだから。」
と言い、そのたびにわたしにブチギレられている。
この辺りまではふつう。
しかし、「人間力」は結構やばいときがある。特に妻たるわたしに対しては、甘えという名の身勝手さが目に余ること多々。
彼はわたしたちの結婚式前日にマリッジブルーになり当日の朝までほとんど口をきいてくれなかったし、第一子の出産前後はわたしを置いてパタニティブルーになり、乳児の夜間授乳や世話をしているわたしを放って朝までゲームをして休日は昼前まで寝ていた。
起こしに行くと悪態をつき、そんな日々が続いたすえに、なけなしのひとり時間を確保するため、将来子ども部屋にするつもりで空けていた小部屋を無理やり自室にして、カギをつけて毎日こもるようになった。真夏で、まだエアコンも設置していない灼熱地獄だったので、数日で体調不良になり入院騒ぎになった。
そのくせ、
「俺はおちぼと結婚してしあわせだな~。いつもありがとう~。」
とさらっと言えちゃうオトコでもある。
「社会的地位」については、そもそも彼には人間の学歴や経歴や年収に対する興味関心がいっさいない。良くも悪くも、社会的尺度で測られる価値に重きを置いていないのだと思う。
けれど、以前はしょっちゅう徹夜で仕事をしていたわたしに、
「頑張っててえらい!」
とは言ってくれる。
それでは、「肉体美」についてはどうか。
はじめて彼と出会ったとき、わたしは確かに彼のその背格好とかかもし出す肉体的頼もしさに心惹かれた。けれど、顔が好みだとか、筋肉ムキムキまっちょがすきだとか、そういうことでもないのだ。
わたしは、「肉体美」ということばを通して、彼の「生命力」がすきだと言っているのだと思う。
例えば、彼は、やけに直感がすぐれている。彼の「今日これをしておいたほうがいい」とか「そろそろこれを買っておくといい」とか「こいつには関わらないほうがいい」という彼の直感の通りにすると、たいてい、めんどうなことは回避できる。
直感とあわせて瞬発力と身体能力もすぐれているので、階段から弧を描いて落下した長男を地面すれすれでキャッチしたり、おなじ場所からあやうく転がり落ちそうになった次男をとっさにすくいあげたりすること数回。
家に不法侵入者が忍び込んだときのためにひそかにシミュレーションをしているし、工具をつかって機械や什器を修理したり整備したり作ったりするのもうまい。
そして、自分が限界まで無理をするということは良くも悪くもないし、他者に自分の期待や理想を押し付けるということも、変に自分や周りを追い込んで苦しめることもない。
彼は、わたしからみると非常時にも生き延びることができそうな機転や身体能力をもっている。それが、たたずまいや雰囲気ににじみ出ている。
思うに、わたしは彼を、
絶対にわたしより先に死ななさそう。
と一目置いていて、
子どもたちが災害や危険にさらされたときには絶対に助けてくれる。
と信頼していて、
ついでにわたしのことも助けてくれるだろう。
と信じてしまう程度には惚れているのだと思う。
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人口知能研究家でエッセイストの黒川伊保子さんによれば、人間の本能は、種の生き残りのために正反対の価値観の相手にこそ惹かれてしまうらしい。
記憶があやふやなのでわたしの勝手な解釈も含んでいるかもしれないのだが、あまりにも夫とわかりあえなくて、藁にもすがる思いで手に取った本に書かれていたのは、おおむねこんなような内容だった。
例えば大地震がきたときに、パートナーも自分も外に飛び出していってしまうような組み合わせだったらまずい。一方はしばらく様子をみようとその場でしゃがみこみ、他方はとるものもとりあえず外に飛び出していくような組み合わせであれば、すくなくともどちらかは生き残ることができる。
けれど悲しいかな、その理論でいえば強烈に惹かれた相手というのはイコールでとことん価値観が合わない相手ということなので、「あばたもえくぼ」なささやかな時期がすぎてしまえば、あとは一定の時間がたつまで、つまり酸いも甘いも愛も憎もこなれた年齢と関係性になるまでは、「なんでこんなにもわかりあえないの!?」という発狂にも似たいらだちを抱えて生きていかねばならない。
それは目からウロコ、強烈に納得できる内容だった。
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思えば、「人間力」も「社会的地位」も「肉体美」ないしは「生命力」もすべて、自分が誰かとつがいになって家族という最小単位の共同体を築き、あらゆる危険を乗り越えて家族全員の生命を維持していくためにパートナーに望むものはなにか、という問いに対する選択肢なのだった。
それは、自分がパートナーとなにを分かち合うことができるのか、どう支え合い補いあっていけるのか、という問いでもある。
我が家であれば、わたしは彼に、それなりに道徳的で良心的な世渡りと、確かな行政手続きやペーパーワークと、堅実な積み立て(調べに調べた学資保険やつみたてNISAなどなど)をわかちあうことができる。
でもわたしは、大事な会議がある日に限って寝坊をし、子どもの行事がある週に限って体調を崩し、約束があるときに限って乗った電車が遅延し、「絶対に今日はあのお店でランチを食べる!」とかたくこころに決めているときに限ってその店が臨時定休日になっている女なのだ。
エイリアンが攻めてくる世紀末の世界ではまずまっさきに死ぬに決まっている。
反面、夫は、長い行政文書や手続きを理解する気はないし、整理整頓できないままにカオスを詰め込んだ6年物の段ボールを寝かせっぱなしにしていたりはするけれど、わたしたち家族に「あ、それ助かる!」というさまざまな強運と、「さすがにもう買い換えないといけないかと思っていた!」と思われた備品や什器の修復力をわかちあってくれる。
世間様なんてちっとも気にしないし屁でもないというタイプで、他者の生きかたを責めることはない。わたしのことも責めないし、きっと子どもたちの生きかたを責めることもないと思う。
わたしたち夫婦はきっと、家族という共同体に対して、わたしはささやかな「社会的地位」ないしはそれにつながる仕組みの活用や行動を通して日常的な土台を支え、夫は「生命力」で非常時のリスクヘッジを担当している。
そして、そんなお互いのことをなかなかおもしろいヤツだなあと思っているような気がする。
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最後に。じつはちょっと前まで、わたしたち夫婦の関係は険悪だった。
もめごとの根本には常に「家事・育児・家計負担の分担の公平性について」という永遠に答えがでることのない議題があって、わたしは常に彼に腹を立てていた。
議論や話し合うということが面倒な彼と、論点を整理して合意できれば問題を解決できると信じているわたしのあいだには深くおおきな溝があって、あわや離婚かすくなくとも卒婚かと思っていたのだけれど、気づけば改善しつつある。
その要因はいくつかある気がしている。
まずは、わたしがかわったこと。
そもそも、家事とか育児とか家計とかいう統一的価値基準で測ることができない領域の公平性を、得意不得意も身体能力も価値観もちがう2人のあいだで完璧に実現しようというのは、冷静に考えれば無理なはなしなのだということが身に染みてわかってきた。
わたしは彼にできないことができる。彼はわたしにできないことができる。
それがたとえ日常的に同等の役割ではなかったとしても、長い目でみたらお互いさまのような気がしてきた。
さらに、雇われる立場の仕事を辞めたことで、稼ぎは減ったけれど生活リズムに融通が利くようになり、「わたしにできて彼にできないこと」により時間を割くことができるようになった。そうしたら、彼も「彼にできてわたしにできないこと」をより頑張ってくれるようになった。
次に、彼がかわったこと。
長男の発達検査などなどを経て、どうも、家族という共同体において自分になにができるのかということを考えたようだ。今、休日の洗濯は彼の担当だ。毎日の子どもたちのお風呂と寝かしつけも、ほとんどお願いしている。ほとんど男3人兄弟のような雰囲気でわあわあやっている。
一朝一夕には変わらなかったけれど、5年かけてゆっくりじんわりそれが当然彼の担当のような習慣になってきていて、たまに、
「俺も成長したな~。」
と自画自賛している。
最後に、ケンカしつくしたこと。そして試行錯誤しつくしたこと。
「公平に分担するなんてまあ無茶だよな」と納得するためには、あいまいさを「まあいいか」と許容できる程度の歩み寄りとか諦めとか、相手へのリスペクトなり感謝なりが必要なので、お互いがお互いにその心づもりができるまでは「こうすべき」と押しつけるのも「まあ適当に」となあなあにするのもよくなく、議論や話し合いを繰り返すしかないのだと思う。
そして、我が家のようにそれができない間柄なのであればケンカしつくすしかないのだろう。ケンカして、なんだかんだで譲歩しあって、納得して、試行錯誤して、また不満がたまってケンカしてを繰り返して関係性が熟してきたら、日常はなんだかんだうまく回るようになったのだろうと思う。
***
このさきどうなるかはわからないけれど、わたしは内心、案外わたしの人生においていちばんなんでもさらけ出して、本音をぶつけあって、気楽に一緒にいることができるのはこのひとなのかもしれないな、と思っている。
だからまあ、わたしたちは案外いい夫婦なのかもしれない。
あと50年くらい経って、酸いも甘いも愛も憎もお腹いっぱい味わって消化したころに、夫といっしょにまどろみながら夢のような一生と夫婦関係について振り返り、どれだけのしあわせを分かち合ってきたのか語りつくすのを夢見ながら、今日もお皿を洗ってきます。