わたしが生まれてきた理由
ある朝、長男が、
「こわい夢をみた。」
と言って起き出してきた。
どんな夢だったのか聞いても答えない。
「ままは泣いちゃうと思うから。」
と言って教えてくれない。
無理やり聞き出すのも違うし、彼が口に出さないことで忘れようとしているならそれでいいか、と思っていたら、まじめな顔をして、
「ままはどうして生まれてきたの?」
と言うものだから、びっくりした。
わたし、5歳のころに、『生まれてきた理由』なんてことを口にだしたり問うたり考えたりしたことがあったっけ?
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それにしても、『生まれてきた理由』について考えなくなって久しい。
はじめて死を意識して恐怖した6歳7歳のころ、考えた覚えはある。思春期のころ、迷走していた二十歳前後のころも、考えたことがある。
でも、二十歳を過ぎてしばらくしたら、『生まれてきた理由』なんて考えなくなった。三十歳を超えたら、死ぬことも怖くなくなってきた。
あと数年で四十歳になるから、そうなったときまたどう意識が変化しているのかがやや楽しみ。
先日37歳になったわたしは今は、ひとが生まれてきて老いて死んでいくのに、特別な理由なんてないと思っている。そのいのちに特別な理由があるいきものなんていなくて、みんな平等で、自然のままに、なるがままに、生まれて老いて死んでいくのだと思っている。
たいせつな友人が亡くなって、祖父が亡くなって、自分の子どもが産まれて、ふとした瞬間に見る父母のすがたがひとまわり小さく見えて、そしてわたしは自分が思っていたよりも早いスピードで年をかさねてきていて、あかちゃんだった子どもたちが『子ども』になりつつある。
そういう状況と、
いままで出会ったひとたちのなかには、社会的地位がとても高くて気が利くけれどとても男尊女卑だとかパワハラ気質だとかというひとたちもいれば、けっして自分から望んだわけではない環境のなかで他者のためにからだを酷使している素直で優しいひとたちもいた。
完璧な環境と完璧な人間性がそろうことはまれだし、仮にそろったとして、それは結局自分以外の誰かやなにかがくれたたくさんの幸運の結果でしかない。
年月がたってあいまいだった感覚が統合されていくと、不思議とそう思うようになった。
『理由なんてない』としっくり感じることができている精神世界は、とても心地いい。陳腐なことを書くようだけれど、大地と、空と、木々と、いきものすべてと、調和していると感じられるからだと思う。
***
ちなみに、長男は、とっさに答えられないわたしをみかねて、
「あーくんを育てるためなんじゃない?」
と助け船を出してくれた。
たしかに、この世界と、所在なかったわたしをつないでくれたのは、君かもしれない。
育てさせていただいて、ありがとうございます。
たいへんなこともあるけどね。きっとそれにも意味はなくて、でもただ幸福で、ただ幸福だと感じながら死んでいけたら、いつか残されたがわの誰かがそんなわたしの一生に意味を見いだしてくれるのかもしれない。