見出し画像

「意識高い系」という言葉が嫌い

とても久々に会った知人とご飯に行った時の話。
最近何してるのかと聞かれたので、色々ある中の一つとして「プログラミングの勉強」と回答。
その反応は、「プログラマーにでもなるの?」「意識高い系だねー」でした。…いやいや、意識低くも高くもないわ!(違)

タイトルの通りですが、「意識高い系」という言葉が嫌い。正確にいうと、人となりや背景をよく理解していないのに、さらっと謎に「意識高い系」にくくられることが嫌い。

意識高い系(いしきたかいけい)とは、自己顕示欲と承認欲求が強く自分を過剰に演出するが相応の中身が伴っていない人、前向き過ぎて空回りしている人、インターネット(SNS)において自分の経歴・人脈を演出して自己アピールを絶やさない人などを意味する俗称である。本当の意味で意識が高い人の表面的な真似に過ぎないため、「系」と付けられている。

出典:Wikipedia

(…これはこれで少し耳の痛い話ですが)
本来は、ここでいう通り「本当の意味で意識が高い人」と、それを「表面的に真似している人(=意識高い系)」という別々のものなんだろう。けれど、いまだに「意識高い系」という言葉をさらっと使用する人は、両方同じものとしてラベリングして、特に深く考えずに使用している気がする。

私自身、一方的にゴリゴリ来る人や、価値観や主張を押し付けられるのはめちゃくちゃ苦手で、そういうのに遭遇すると息苦しいというか、すん…って一気に冷めてしまう(苦笑)
別に「本当の意味で意識が高い人」だと思ってほしいとかいう訳ではないけれど、なんか…なんか一緒くたにしないでくれと反発したくなるのかもしれない。

「そんなこと気にしなきゃいいじゃん」って言われるとそれはそうなのだけれど、こっちとしては単に「やりたいからやってる」だけなのに、特段よく知りもしないで、ふんわりとワード一つでくくられることへの違和感があって、なんかもやっとするのです。まぁボヤキです。

「日本人のビジネスパーソンはコソ勉をする傾向にある」というのは、職場に限らずこういう小さな水を差されるケースがいちいち面倒くさいということもあるんだろうな。

「やりたいことがある」ならやればいいし、それを公にしてもなんら問題なくて、自分にとって「プラスの影響を受ける人がいる」ならエネルギーもらえばいいし、「マイナスの影響を受ける人がいる」なら離れる…そんな当たり前のことが、みんな当たり前にできるようになればいいのにな。

うーん、何事も…「言うは易く行うは難し」か。。

いいなと思ったら応援しよう!