年始の疎開
夏に続き、年始も京都で疎開をしていた。これまで何度も年末年始を京都で過ごしていて、特に年始は初詣等の混雑以外、街中はかなり静かである(しかしお店が開いていないことも多い)ということを知っていたし、土地勘もあるためさらに場所的な人の避け方もわかる。私は観光をするわけではないので、リスクを避けて美味しいものを食べ、ゆったり過ごそうと上洛。
今回のテーマは何より白味噌お雑煮体験と花びら餅祭り。
白味噌お雑煮は、ずっと気になっていて去年はデパートで白味噌などを買って自分でも作ってみたりしたんだけど、どこまでも想像上の食べ物感が拭えないというか、やっぱり実際現地で本場を食べなければと思っていた。前に京菓子資料館(俵屋吉富さん)で花びら餅とお抹茶を頂いた時、受付の方がかなり和菓子好きな方で、どこの花びら餅が好きかとかいう話をした後、白味噌雑煮の話になって、それならとらやさんで食べられますよとか、さるやさんも三が日だけ出してますと教えていただいた。だから今回は3日に京入りすることにして(3が日なら通勤開始前だから移動リスクも減らせるし)、到着後宿に荷物を置いてすぐ、下鴨さんに向かった。いつも通り南側から糺の森を通って(森は出店もあって混雑していたの足早に)さるやさんに直行。
無事に念願の白味噌雑煮体験ができた。食べたのは勿論外。実はその後近くの加茂みたらし茶屋さんでも追白味噌雑煮をしてしている。こちらは名前の通りみたらし団子が有名なんだけど、お雑煮も通年で出していらっしゃるそう。店内と外が選べるので、勿論外で食べた。
そして別日にとらやさんにも行った。何気に茶房は初めてだった。こちらも店内とテラス席が選べるので、勿論テラスで。毛布も置いてあったし、お庭を見ながら食べられた。
私は「感染しないため」都内で店内飲食なんてもう全然していないけど、リスクをコントロールできる環境で食べたいものが食べられるのであれば、勿論その機会は堪能する。
14時過ぎに覗いてみて店内に他のお客が誰もいない&お店の方もきちんとマスクをしているのを確認してから食べた京都牛のすき焼き。良いお肉はおいしいね。
都内はいつでも人が多すぎで、特に高リスクな人間をどうしても避けきれないのがストレスなんだけど、京都は元々人が少ないし特に年始は街の人は自宅でゆったり過ごす方が多い印象。パンデミック前に年始を過ごしていた時から、まずは開いているお店が少ないし、その少ない開いているお店に入っても人も少ないというのを体感していた。↑のお店も、夏だったら床を出したりして内外のお客さんで混雑するんだろうけど、年始だし、さらに時間帯もずらせば人はいないと踏んだのが的中した。
飲食店以外にも、例えばふたばさんは8日、亀末廣さんは確か6日だったりと、観光用でない街が動き出すのはゆったりペース。だから私はそんな半分眠っている時期の(観光用でない)街の中で、楽しめる範囲で楽しんで、あとは宿でダラダラしようという心算でいた。ちょうど今回の宿はテレビがネット接続されていてそのまま検索動画を見られる形だったのもラッキーで、宿ではずっとくるりを聴いていた。
花びら餅は、塩芳軒さんのもの以外は、だいたい食べようと思っていたところのものは食べられた。基本的にはデパートで買ってしまったんだけど、塩芳軒の花びら餅(高島屋)は確か年末予約分のみとのことだった。それで後日、直接店舗へ行ったんだけど売り切れてしまっていた。。印象として、中価格帯?のお店のものが値上がりしている感じがした。とらやさんや老松さんなどは648円で据え置きだったけど、前は400円台だったように認識していたお店で、あらら?ということが多かった気がする。記憶違いかもしれないけど。デパートで1個売りで買えない末富さんは、店舗へ買いに行った。
756円とわりといいお値段だけれども、その分やはり素晴らしかった。(他店は2日から3日、もっと長いところもある中で)日持ちもしないんだけど、柔らかいお餅、品良い味噌餡と牛蒡で納得の味。
今年は都内で買ったものも含めて計10個の京の花びら餅を頂けた。実はその他にもちゃっかり、岐阜(大垣)でも乗車待ちの間にいつも寄る2軒のお菓子屋さんでそれぞれ花びら餅を買って食べている。笑 ちなみに岐阜の花びら餅はやっぱり岐阜の味だなという感じがした。味噌の感じとか。やっぱりその土地に合った形に調整されているんだろうな。都内のものはどうなんだろう、、???
さて。疎開の毎日のルーティーンはその日の場所と決めたところまで歩いて行くこと(だいたい梅のあるところ)、道中でお菓子や食事などを買うこと。
市バスは使わずとにかくひたすら歩いていた(宿の外では歩いている時間が一番長かった)。
疲れて宿に戻ると今度はひたすらくるりタイム。くるり今は動画サイトにアルバムを丸々載せているんだね。聴きながら食べたり考えごとをしたりだらだらしたりした。
なんだかんだで私が京都へ通い出したのはみやこ音楽祭や磔磔への憧れがあったからだし、流れた日々の中で、くるりも、私とくるりの繋がり方も変わったけれど、曲を聴いていると本当にくるりに心酔していた当時の日々のことを思い出したり、やっぱり好きな曲は抜群に良いなと改めて思ったりでちょっとしんみり。
アンテナを聴いていて、やっぱりあの頃の曲はクリスのドラムがあったからこそだよなとしみじみ。くるりって編成によって定番曲のアレンジもがらりと変わるし、それで(曲とは別にライブの)好みの時期やしっくりこない時期が出るんだけど、それを思うと「すけべ」とか「ロックンロール」とか、彼がいなければ生まれなかったんじゃないかな、と。
残念ながら私は彼のドラムを生で聴いたことがないんだけれども、映像を見るだけでも、音と全身で一体化した、重みもあってわりとシンバルも使っているのに軽さを感じさせない爽快感のあるドラムはすごい好み。「How to go」も、やっぱりアルバム。ライブはさぞかし気持ちよかったんだろうと思う。
他に何故かエンドレスリピートしてしまったのは「かもめはかもめ」。社長のぶりぶりしたベースと鍵盤の不協和音が病みつきだよね、なんてぐるぐる聴いていたら途中で「?」となって、歌詞を確認してみた(何度か書いたことがあるけど、私は絶対音階の関係で音と一緒に言葉を認識するのが難しい)。ら。「甘く染まった瑠璃色の涙」のところを「淡く染まったルビー色の涙」と、全く違ったものとして記憶していたことが発覚。イメージが違いすぎる。むしろ逆。ひぇぇ。でもまあ前後の文脈から昔そう聞き取ったんだろうなと思いながら、またぐるぐる。結構曲全体の印象に関わるとこだよね、と、脳内イメージを更新しようとするもののうまくいかず、もう私の中ではルビーでいいやと、不協和音の中で開き直り。笑
そんなこんなで、リスクを避け、ひたすら歩く、食べる、聴くで過ごす日々は穏やかでとても良かった。危険な場所、人間から離れられるゆとりがこれほど心を落ち着かせるのか、つまり、日常がどれだけ劣悪な環境にあるのかと痛感した。
食べているのはほとんど外(寒いのに)か宿でだし、したいことの全てをフルスイングでできているわけではない。それでも、自分が感染しないよう、人を感染させないよう、配慮して行動をすれば充分楽しむことはできる。
いくらマスクを外させたって、そもそも無い袖は振れないんだし、疲弊した経済が持ち直すことはない。私はリスクがある環境にはいたくないので、ノーマスク店員がいる店やノーマスクが集まるような場所には絶対近寄らないし(わかったらすぐ逃げる)、そんなところでお金を使うことはない。お金を使う場所が減れば、社会にお金が回ることも減る。
既得権益者は何故か「マスクを外す」と「経済を回す」をセットにしたがるけど、感染が拡大すれば経済が滞るというのは当然のこと。感染を抑えて経済を回すが最適解なはずなのに、新自由主義の中では決してそうはならない。
「痛みに耐え」させられるのはいつも庶民。得をするのは既得権益者だけ。下々が疲弊し落ちれば落ちるほど、パンデミックが長引けば長引くほど、既得権益者にはおいしい。自分達は確実に入院先も確保できて高度医療が好きなだけ受けられるんだから、お仲間以外の下々、特に老人を効果的に削減できて、経済弱者が日に日に力尽き貧富の差を拡大し続けられる(=富を自分達の周りにかき集められる)構造は、それはたまらないでしょう。だから続いてほしいし、そのためにもマスクを外させたい(「俺がマスクを外したい」が第一ではあるだろうけど)。
騙されてはいけない。ニッポンが海外で軽視(&馬鹿に)されているのは、マスクをつけているからではない。利権と腐敗、国庫の私物化で国力が低下したからだ。国内がこんな惨状なのにかつての経済大国気取り海外でばら撒きをしたところで、もらえるものはありがたく頂くけれども、ありがとう、それだけ、ということだろう。米国だって日本よりもはや韓国が優先。当然だ。数字を見ればいい。国内でだって、若い子は韓国に憧れている。
利権集団内の忖度で国内では「見ないこと」にすれば無くなる「ようにさせている」問題も、外からはそうはいかない。
海外からの眼差しの理由はマスクではない。底抜けの沈没船のくせに、かつての栄光に酔い、豪華客船の気でいるから苦笑されているだけだ。それを「見ないこと」にするため、あるいは「見たくない」から、既得権益者は問題をマスクにすり替える。
夏にはあれだけマスクをすると体温が上がるから熱中症対策のためにマスクを外せ等と科学的知見に反するプロパガンダを撒き散らしていたのに、寒い時期にはマスクによる保温効果など全く触れられない。何故か。この国の政策は科学見地からではなく恣意的にマスクを利用しているだけだからだ。(科学的には、マスクは周辺の表面体温を上げはするものの、深部体温にはほぼ影響を与えない。)
科学も知性も理性も投げ捨てて、庶民に痛みだけ強いて猪突猛進するこの国がこの先どうなるか。もはや見届けようという気すら起きはしない。
……いけないいけない、せっかく京都の穏やかな日々のことを書いていたのに。
とにかく、危険から離れて、歩いて、食べて、聴いてという時間は貴重でした。
当たり前のはずのことが当たり前ではない。悲しい現実が変わることはないんだろうね。