生きのびるために、生きている。
人の顔色を伺いながら生きてきた。
誰かの許可を得ながら生きてきた。
何かの軸に合わせて自分を伸ばしてきた。
そんな成長の仕方をしてきたものだから、急に社会に放たれて、私はひどく戸惑った。
いや、今でもまだ戸惑っていると思う。
それが正義で生きてきたのに、社会ではその正義が逆転する。
声が大きい者が勝つ。
正解なんてない。だからこそ、いかに押し通すかが鍵になる。鍵になってしまう。
強く見せる方が賢いのだ。
それがいつの間にか、正義になってしまうのだ。
本当にそうか?
なんて、言っている暇もない。
世の中には声がどんどんと溢れてくる。
その声には名前があったり、名前がなかったりする。
名前のない声は人を傷つけたり、悪意に染まったものもある。
責任と無責任。声の重みは違うはず。それなのに、しっかりと人を傷つけるための刃は責任のあるそれよりも無責任のそれの方が故意的に鋭利になっていることがある。
この世界で生き延びなければならない。
この世界で生き延びなければならない。
正解もないこの世界で。
多数決で正解みたいなものが決まってしまう、この世界で。
私がこれまで傷ついてきた意味はなんだろう。
私がこれまで苦しんできた意味はなんだろう。
それはきっと、ない。
そんな意味はきっとないのだ。
でも、それに意味づけをする自由を私は持っているはずだ。
その意味づけを味方に、生きていくことはできるはずだ。
きっとこの意味づけに共感し、共鳴し、一緒に「苦しかったね」と涙できる仲間が見つかるはずだ。
どうしてそんなことが言えるかって?
それは、もうすでにその希望を感じているから。
生きのびるために。私は、生きているみたいだ。
誰かの声を求めて。
誰かに声を届けるために。