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南部北上山地(南洋からきた巨大海山)と三陸ジオパーク

約5億年前(古生代カンブリア紀)、南部北上山地の基盤は、赤道付近の超大陸(ゴンドワナ大陸)の北縁にあり、そこではサンゴや三葉虫さんようちゅうが栄えていました。これが約4億年前(古生代デボン紀)、海洋プレートの移動とともに超大陸から分離。

約1億8000万年前(ジュラ紀中期)からパシフィカ大陸(今の南中国)とともに北へ移動。

約1億4000万年前(白亜紀前期)、アジア大陸の東岸に到達しました。
この年代は、アンモナイトや三葉虫、植物などの浅海や陸地で生きていた生物化石からわかっています。

2022年6月2日
まっぷるトラベルガイド編集部
北上山地と奥羽山脈が秘めた謎


三陸ジオパーク

三陸ジオパークは平成25年9月に日本ジオパークとして認定されました。エリアは青森県八戸市から岩手県の沿岸を縦断して宮城県気仙沼市まで。南北約220㎞、東西約80㎞で、その海岸線は約300㎞にもおよぶ日本一広大なジオパークです。

三陸ジオパーク

北上山地(三陸)の形成CG映像

「北上山地(三陸)の形成」
もともと北上山地はひとつではなく、南側と北側で遠く離れた別々の地域に存在していました。

1)南部北上帯(三陸南部)は、赤道付近の大陸の一部が分離して移動
赤道付近にあったゴンドワナ大陸の端で、のちに南部北上帯となる砂や泥が堆積。4億5,000万年前頃周辺のマグマ活動が活発化し、その後現在の三陸を含む地域が大陸から分離。大陸から分離しても4億4,000万年前~2億5,000万年前頃は赤道付近にとどまり、サンゴや三葉虫などが栄えました。

2)南北の大地(北上古陸)がアジア大陸で出会う
1億4,000万年前頃にほぼ現在の配置になったと考えられています。この頃はまだアジア大陸の東縁部にあり、現在の様な列島(日本列島)にはなっていませんでした。

三陸ジオパーク

(1)北上高地南部の変成岩
(2)地質の場所・・・南部北上帯
(3)時代・・・古生代カンブリア紀~中生代白亜紀
(4)地質の分類・・・花崗岩(深成岩)、変成岩、堆積岩


龍泉新洞科学館(=北上高地北部)

龍泉新洞科学館は、龍泉洞入口の向かい側にある鍾乳洞で、1967(昭和42)年に発見されました。洞内からは縄文時代早期とされる多数の土器・石器が出土し、鍾乳洞を利用して生活していた人々の暮らしを知ることができます。

「龍泉洞新洞科学館」では、洞穴学・地学・生物学・考古学などの貴重な資料や標本を展示する、自然洞穴科学館です。

※内部は撮影禁止になっています

三陸ジオパーク
縄文時代早期とされる多数の土器・石器が出土した。
石器時代人の人形を使った生活展示がある。

ホルンフェルス製のチョッピング・トゥール

岩手県遠野市宮守町建曽部たっそべの土取り現場からホルンフェルス製のチョッピング・トゥールが見つかっています。
この石材は北上山地北部に産出します。
チョッピング・トゥールは、前期旧石器的な特徴をもつ石器です。

ウィキペディア

龍泉洞の奥に広がる青の世界

龍泉洞・新洞などの鍾乳洞は、約2億数千万年前(中生代三畳紀)の火山島の上に有孔虫やサンゴなどの生物の殻が堆積してできた石灰岩(安家あっか層)が、大陸縁に付加した後隆起して地上に押し上げられ、長い時間をかけて雨水に侵食されて形成されたものです。

安家層は岩泉エリアに広く分布しており、南斜面に石灰岩の断崖がそそり立つ宇霊羅山うれいらさんや鍾乳洞などで石灰岩特有の地形や景観を見ることができます。

三陸ジオパーク

上萩森かみはぎもり遺跡と初期の台形石器文化

上萩森遺跡は、昭和50~52(1975~77)年に発掘調査が行われ、
多くの石器が出土し、後期旧石器時代(3万5千年前~1万6千年前)の遺跡であることがわかりました。

石器はナイフ形石器・彫器(彫刻刀形石器)・礫塊れきかい石器(ハンマーストーン)などで、ナイフ形石器は、後期旧石器時代の代表的な遺物であります。

奥州市埋蔵文化財調査センター

上萩森かみはぎもり遺跡Ⅱb文化層の石器群は、東北大学・鹿又喜隆教授が詳しく研究しています。
東北地方のⅡb文化層は、淡黄褐色たんおうかっしょくガラス質火山層で、石器群は最下部に発達しています。

Ⅲ層は村崎野むらさきの浮石うきいし(7万年前~4万年前)を含む、黒沢尻くろさわじり火山灰に相当します。

Ⅱb文化層の上位には、姶良あいら火山灰AT(2万9千年前~2万6千年前)が確認されています。

2005年5月
宮城県考古学会

(鹿又氏の研究によると、)

上萩森遺跡(Ⅱb文化層)から出土した石器は、ペン先形石器(、基部加工剥片)と台形石器の3種類にほぼ限定できます。

このうち、横長剥片素材の石器はペン先形石器と台形石器(米ヶ森型に類似した台形石器を含む)です。また、縦長剥片素材の石器は、(基部加工剥片)と台形石器です。

上萩森遺跡(Ⅱb文化層)では新石刃技法は認められません。

上萩森遺跡(Ⅱb文化層)の石器製作と素材供給の関係からするば、
ペン先形石器と台形石器などの石器は、同一の石核(秋田県産の珪質頁岩)から得られる横長剥片と縦長剥片の素材が利用されていたことが、うかがい知られます。

このような石器製作の技術構造は二面的であり、佐藤宏之氏が指摘する
二極構造を指向するといえるかもしれません。

2005年5月
宮城県考古学会

(鹿又氏の研究によると、)

ペン先形石器(と基部加工剥片)には、基部に凹基おうき式の加工
ほどこされ、柄に装着するための調整加工であると想定されています。

台形石器、米ヶ森型に類似した台形石器には、基部に調整加工は認められません。(尖基せんき式)

台形石器の使用痕分析から、骨角を対象とした鋸引き作業が行われていたと推定されます。

上萩森遺跡(Ⅱb文化層)の台形石器は、刃器であって、槍の穂先ではありませんでした。

2005年5月
宮城県考古学会

3万5千年以上前の上萩森遺跡(Ⅱb文化層)は、新石刃技法をもつ集団の影響を受けていなかったため、初期の台形石器文化の様相をうかがい知ることができます。

(横長剥片素材と縦長剥片素材の石器製作の二面性は、効率性の観点から評価すれば、無駄の多い作業と考えられ、考古学者を悩ませてきました。
しかし東北地方の先住民にとって、この二面性は呪術的な意味があったのかもしれません。)


上萩森かみはぎもり遺跡に類似した遺跡

集団がかなりの遠距離を移動したり、拡大したりしたことは、
まるで先史集団が探検をしたい、移住してみたいという強い衝動に
取り付かれたかのように、個人的な好みという観点で、イメージされがちです。・・・

攻撃的な隣接集団の侵入、過剰になった人口、
過剰狩猟、疫病からの逃避、シャーマンの予言・・・。

こうしたことがらすべてが、未知の土地への移住のきっかけになるのです。

キングドン

新潟県樽口遺跡(A-KH文化層)

(鹿又氏によると、)

ペン先形石器と台形石器、立野ヶ原型台形石器の石器組成は、
上萩森遺跡のものに類似しています。


しかし、この遺跡からは東山系ナイフ形石器も出土しており、
上萩森遺跡よりも少し新しい時代の遺跡と推定されます。

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