
「ハリポタツアー東京」と里山の異世界
2023年6月16日、としまえん跡地に『ハリー・ポッター』『ファンタスティック・ビースト』映画製作の魔法を体験できる体験型エンターテイメント施設「ワーナー ブラザース スタジオツアー東京 - メイキング・オブ ハリー・ポッター」が開業しました。
ワーナー ブラザース スタジオツアー東京のオフィシャルビデオ
世界中で愛される、映画「ハリー・ポッター」や「ファンタスティック・ビースト」シリーズの制作の裏側を実際に体験できるワーナー ブラザース スタジオツアー東京では、ホグワーツ特急や、大広間をはじめ、魔法省やダイアゴン横丁など、数々のセットが公開されてきました。
ワーナー ブラザース スタジオツアー東京公式
古多摩川の「泥流・川底時代」と東京都・武蔵台遺跡
Ⅹ層(立川ローム層下底部)の時代は、約40,000年前の最終氷河期下にあって、北海道が樺太と接続して(古北海道半島となり)、本州は四国・九州と一つの島(古本州島)を形作っていました。
この時、津軽や対馬の間の海峡は開いていたため、現生人類が陸地だけを伝って古本州島へ渡来したとは、考えがたいのです。
竹岡俊樹


fengxianさんのブログより
武蔵台遺跡は、東京都府中市武蔵台二丁目に所在し、現在の都立多摩総合医療センターの敷地に相当します。
武蔵野台地上に位置し平坦ではありますが、すぐ南に高低差約12mの国分寺崖線があります。
眼下が見下ろせる見晴らしの良い高台です。
武蔵台遺跡の石器群の特徴の第一は、その圧倒的な出土量です。
(この遺跡で、)旧石器人が約35,000年前から20,000年前まで断続的に石器を遺した累積的な行為の結果と言えるでしょう。
現在の武蔵野台地は東西を東京湾と関東山地に、南北を多摩川と荒川で囲まれています。
約40,000年前の武蔵野台地はやや温暖で多雨であったことから、古多摩川と古荒川がしばしば氾濫しました。現在よりも川幅が広く、流域は痩せた土地で樹木、草木が僅かに生育し、一体には、私たちの想像を絶する景観が広がっていたようです。
古多摩川によって形成された砂礫堆積地が扇状に広がり、現在の武蔵野台地の位置にあった高台は、面積がずっと狭かったと考えられます。そこかしこに、石器の石材が露出していたに違いありません。
約40,000年前の古多摩川流域は、礫層が堆積した「泥流・河床の時代」でした。
竹岡俊樹
東京都武蔵台遺跡と局部磨製石斧
武蔵台石器群の特徴の第二は、
Ⅹ層(立川ローム層下底部)石器群という、南関東地方の最古(約35,000年前から30,000年前)と考えられている石器群です。
石器の組成として局部磨製石斧を有しますが、それ以外には定型的な石器がほとんどありません 。合計で約4,500点の石器が出土しており、こちらは同時期の石器群の中では全国最大級です。
日本列島にはじめて渡来した旧石器人を考える上で、重要な遺跡です。

「ネピリム(神々の子孫)」の石器群
局部磨製石斧とは
主に刃の部分を磨いた石斧。
(ヨーロッパでは、)旧石器時代に磨製石器は存在しない(ため、日本でも存在しない)といわれていましたが、日本の後期旧石器時代初頭(約32,000年前~30,000年前)には(磨製石器が)存在していたことがわかりました。
はじめてきた土地に住み家(と小舟)を作るため、木を伐るのに利用したと考えられます。
道具が無ければ、狩猟生活は成立しない
氷河期になると、食料確保の手段は狩猟が中心になりました。狩りはヤリを、石器作りは原石の入手を、それぞれ前提としていました。
原石を入手できない土地へは後期旧石器人はもちろん、古代型人類ですら移住することはありませんでした。
武蔵台遺跡の旧石器人は、(近くの古多摩川で採取した)チャートを主な石材として、前期旧石器的な特徴をもつ円盤状石器(とチョッピング・トゥールやチョッパー)のような大型石器を製作しました。
また、外部(北関東の石工集落)の文化を模倣した小型の台形石器は、
縦長の剥片(二次素材)から先端部を両面加工し、基部を砥石(粘板岩を主な石材としたもの)で磨いたもの(凹基式)です。
竹岡俊樹
神々の古道
約40,000年前に箱根火山の激しい噴火活動は休止しましたが、古富士火山の噴火活動は続いていました。
約40,000年前から35,000年前の南関東では、寒冷化に伴って降水量が徐々に減少したことと、古富士火山の噴火による火山灰の堆積とで、相模野台地・武蔵野台地や大宮台地に新しい里山が誕生しました。
この時代の古多摩川流域は、立川ロームが部分的に堆積し始めた
「河原・岸辺の時代」でした。

安蒜政雄
「糠漬けおたく」さんのブログより
約35,000年前頃に、日本海側のヒトビトが南関東に誕生した高台に移住しました。約33,000年前ごろまでの2,000年間は、前期旧石器的な特徴をもつ石器を製作していました。
「台形様石器研究序論(1988・1992)」で佐藤宏之氏は、横長・幅広剥片剥離
技法の台形様石器は、「前期旧石器時代」の技術的系譜と指摘しました。
これは、在地のヒトビトのオリジナルな台形様石器で、横長の剥片を(二次)素材として、基部は磨かずに鋭利なまま(尖基式)でした。
関東地方における
最古級の石器群と狩猟具の展望
白石浩之
神々の子孫たちは、前期旧石器時代文化的な様相をもち、外部(北関東の石工集落)の文化の模倣を繰り返しながら、1万5千年前ごろまで、ほとんど後期旧石器時代を通して南関東で生き延びていたようです。
竹岡俊樹

中期旧石器時代(8万年前~6万5000年前)の
「ネピリム(神々の子孫)」の石器群
立川段丘
約33,000年前から31,000年前(以前は29,000年前と考えられていた)の南関東では、古多摩川が浸食力を失ったことで、国分寺崖線の下に新たな谷底平野が誕生しました。
砂礫層が広がっていた立川面は、腐植を多く含み黒色を呈するA層で覆われました。
この時代の古多摩川流域は、離水が進んだ「陸地化の時代」でした。
羽根沢台遺跡と疑似茂呂系文化
羽根沢台遺跡で発見されてた約31,000年前の立川ローム層・第Ⅶ層(以前は27,000年前と考えられていた)の石器集中部は、武蔵野台地でも屈指の大規模なものです。
外部(北関東の石工集落)の文化を模倣した茂呂系ナイフ石器は古石刃技法で製作されています。

asiansophiaさんのブログより
約4万年前から約3万年前の間、古浅間山は活動が見られず、休止期となりました。
しかし、古赤城火山は3万2000年前に鹿沼軽石を山頂火口内の北より噴出しました。
北関東の石工集落の一部は武蔵野台地に移住して、形質的に異なったヒトビトと共に生活していた可能性があります。
この時代の古多摩川流域は、段丘崖の下の谷底平野に火山灰が降下した
「立川ロームの時代」でした。
羽根沢台遺跡で見られる大型の角のあるスクレイパー(鋸歯状石器)は、謎めいた石器です。茂呂系文化を担った人々(北関東の石工)の遺跡からは見られません。
竹岡俊樹

呪的意味があったのかもしれません。
中期旧石器時代のインド
約4万年以前へとさかのぼる中期旧石器時代のインドの石器は、東アフリカのそれに似ていて、ほぼ見分けがつきません。
テクノロジーの小規模な革新は西アジア陸橋を超えて拡散した可能性がありますが、全体として見ると、およそ2万5千年前までは大きな変化のない、
均整がとれた、安定状態をしめしていました。
約4万年以前のインドに進出したホモ・サピエンスの特徴をもつ古代型人類は、その後アフリカとのあいだに、大きな遺伝子交換があったという証拠は
見つかっていません。
(彼らは、どこへ行ってしまったのでしょう)
誤ったイメージ
旧石器時代、それも少なくともその終末期まで古本州島には大陸から渡来した現生人類とともに、形質的に異なったヒトビトが生きていた可能性があります。
私たちは現在のこの私たちの姿や能力を当たり前のことだと思っています。
今ここからは学問の原点に立ち帰り、旧石器時代人の文化や社会を想像することをやめ、私たちは彼らを理解することができないという前提の下で研究を始めましょう。
ようこそ、神々が住んでいた里山の異世界へ
竹岡俊樹
脳の発達
数百万年前(前期旧石器時代)、人類は(生き延びるために)片手で骨を握り、
もう一方の手で敲き石を振り下ろして骨を割り始めました。
三十万年前には、精緻な石器を作り始めました。
石器を作り始めて二百万年以上を経て、ようやくヒトビトは現在の私たちと同じような、自在に動く指と、それを動かす脳を獲得できたのです。
竹岡俊樹
左手で素材の石を固定し、右手に敲き石が握られていたと
仮定すれば、旧石器時代人の多くは右利きであったことが説明できます。
竹岡俊樹
左手を支配するのは右脳、右手を支配するのは左脳です。
石器のイメージを投影しながら、素材を自在に動かして空間上に位置づける左手の作業は右脳の機能です。
一回一回の打撃のたびに素材の表と裏をひっくり返し、次の製作工程を認識しながら、全体を構成してゆく右手の作業は左脳の機能です。
左右の手で完全な両面加工の石器を作ることができるようになり、機能的に異なる左右の脳を獲得しました。
ヒトビトは石器製作をとおして、右脳(感性、イメージ)と左脳(論理、言語)とが機能的に分かれ、未来の創造と現実(科学)の認識方法を獲得したのです。
竹岡俊樹
「前期旧石器時代」の技術的系譜の否定
南関東の台形様石器の定義で、
佐藤氏は「前期旧石器時代」の技術的系譜のものと
「後期旧石器時代」のものの二極構造の中で捉えようとしました。
前者は横長・幅広剥片剥離技術で製作された台形様石器で、
後者は石刃・縦長剥片剥離技術で製作されたナイフ形石器としての台形石器です。
しかし、竹岡俊樹氏らによって否定されました。(竹岡2003)
関東地方における
最古級の石器群と狩猟具の展望
白石浩之