毒親との話(まとめ)
モヤモヤしていた毒親との関係の真髄がとてもシンプルに纏まったので書き留めてみる。
とても短く言うと、「毒親にして欲しかったことはただ『ありのまま』を受け入れること。ありのままを受け入れられないのならただただ関わって欲しくない。子に『求める』ことをやめてほしい。」ここに尽きる。
何でもかんでも「心配」「心配」「心配」で子の行動を制限しようとする。「親子でもリスク許容度が違うのは違う人間なんだから当たり前。勝手に自分の小さい肝を見せつけて他人をコントロールしようとするのは良くない」と言っても聞かない。散々心配を押し付けられて延々ストレスを与えておいて「あなたのためを思ってのこと」「親なら当たり前」で開き直る。角を矯めて牛を殺すとはこのこと。自分でコントロールできないリスクが嫌な弱虫なだけ。
親の考えは古い。いい大学を出て大きい会社に入ってたくさん稼いで、(稼ぎも性格も)いい人と結婚して…という一昔前の考えに凝り固まっている。「普通」から外れる生き方を全く想像できず、ただ紋切り型のあり方を求めてくる。それで何度衝突したことか。
多様な生き方に触れてきた我々の世代は仕事を選ぶ際の軸が彼ら団塊世代、一億総中流世代とは大きく異なる。安定を軸に選択する者、稼ぎを軸に選択する者ももちろんいるけれど、やりがい重視の価値観を持つ人も多い。何を軸にするのが正しいとかはなくて、結局はその人がその人らしく生きられる選択が人生を豊かに楽しいものにしてくれるのではないか。
しかしそんなことには全く耳を傾けずテンプレを押し付けようとするのが毒親。何を言っても無駄で、とにかく神経をすり減らし、たくさん人生の遠回りをさせられてきた。この恨みは今後どんなに人生が良い方向に傾いても一生消えないだろう。
そんな親に求めていたのは「ありのまま」を認めてもらうことだった。ただ、等身大の自分を認めて温かい目で見守って欲しかった。あれこれ口出してやることなすことやる気を奪うのではなくて。応援が出来ないならせめて難色を示しつつも邪魔するような真似はしないで欲しかった。
そんな包容はおろか逆に苦しめてくる親なら正直言って離れたい。価値観が合わないのも薄々気づいているはずだ。でも「家族」であることを彼らは求めてくる。
「家族ならもう少し優しく労る言葉があってもいいんじゃない」「母の日なのに何もないの?」「もう少しハートのある言葉はないの?」などと「愛情」を強いる発言をしてみたり「家族は何があっても離れられないからね」などと呪いのような「絆」を主張してきたり。とにかく求めてくるのだ。元来絆は動物を繋ぎ止めておく綱の意味合いがあったらしいね、本当そっちの意味の「絆」である。
家族であっても合わないなら適切な距離感を探るのも一つの答えなのではないか。それもせずただただ無理矢理くっつこうとするからオカシクなるのだ。家庭内○人が起こるのもこういう固執があるのだろうか、少し頷ける部分である。正直早く○ぬか、生きててもいいけれど子どもの記憶だけごっそり喪失して「どなた?」と言われたい。
逃げればいいのではというのはとても簡単な言葉で、親の殺し文句は「会社に電話してやる」だ。子どもの社会的関係性をぶち壊すようなことを平気でやってのける連中だから下手に刺激ができないのだ。これも1番の親友に愚痴を話したのがバレた途端、弁明の手紙を書きやがったという立派な前科がある。あの時は本当に絶交の危機に陥った。いい加減胃が痛い。
育ててやった恩を忘れたのかという言葉、育てた方を間違えたという言葉も何遍も聞いた。どう反論すれど「愛」ゆえに結論づけて、愛のなさそうなラベリングは全て違うと否定して聞く耳を持とうとしない。お前らの「愛」は重たくて痛いんだよ。膝の上にコンクリの塊乗せられているようなもんなんだよ。
もう期待はしないからただ目の前から消えてほしい。一生顔はおろか声も彼らが書いた文字(電子文書含む)も見たくない。
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