なぜ笑うんだい?
クリスティアーノ・ロナウドがとあるイベントのために来日するというニュースが日本で伝えられてからそれほど経たぬ頃、そのイベントの参加権を得た少年は憧れのロナウドと対面する日を今か今かと待ち望んでいた。
イベント当日、それは意外にも厳かに始まった。ロナウドが纏う覇気はさすが世界を股にかける人物であると言うべきものであり、会場の誰もがそれを感じ取り、気圧されていたのだ。少年も例外ではない。
しかしその不穏な始まりとは裏腹に、イベントは和やかに進行した。ロナウドの柔和でユーモラスな人柄のおかげだろう。当初のピリッとした雰囲気は見る影もなくなっていた。
そして日程も佳境に差し掛かり、少年がロナウドと会話することのできる時間が訪れた。少年はこの日まで、あのロナウドと、ロナウドの生まれ育った地の言語で、心で語らいたいと思い、ポルトガル語を勉強していた。異国の地の言語を学ぶことは当然易しくはなかったが、目標が彼を突き動かしていた。
ついに少年がロナウドへと話しかける。学んだポルトガル語で懸命に、一語一語確かに。ロナウドは、それを笑顔で聞き届けた。確かに伝わっているよ、と返す。
しかし大人たちは少年の努力を一笑に付した。往々にして人間は拙さを揶揄う。
少年の発話が終わったあと、返事をするその前にロナウドは物言いたげな顔をして大人たちの方を向いた。
なぜ笑うんだい?
ロナウドは真剣だった。だからこそ、彼らの姿勢を疑問に思っていた。そして、キッパリとした物言いでこう続けた。
彼のポルトガル語はポルトガルだよ。
会場がシーンとする。しかしロナウドは間髪入れずにさらに続ける。
変なことを言っていると思ったかい? いや、至極真っ当なことさ。正にポルトガルそのものなんだ。彼の発する言葉を耳にした瞬間に、あの美しい、恋い焦がれたポルトガルの大地が脳裏に、ビビッドに色づいて浮かぶんだよ。単語の一つ一つが、そのままポルトガルになって僕の眼前に立ち現れるんだ。ここはポルトガルではない、そう頭ではわかっているんだ。だけど、確実に今、ここに「ある」んだよ。それだけじゃない。彼の地に吹く風の冷たさや風に肌を押されるあの感覚すらある。こんな経験は今まで一度もしたことがない。
そうまくし立てるロナウドであったが、その熱量は誰にも届いていなかった。誰もロナウドの話していることの、その意味を微塵も理解できていなかった。それでもロナウドは語るのをやめない。
なぜ笑うんだい?
もう一度そう問うたあと、何かを間違えたことに気づいたかのような表情を浮かべ、ロナウドは問い直した。
なぜ心から笑えないんだい? 僕はもう、この高揚と恍惚、感嘆と畏怖から抜け出せない。抜け出そうという気すら起こらない。
───ロナウドの焦点は虚空に合っていた。どこでもない場所を見つめながら、ロナウドは口走る。
だって、ほら! この色、匂い、音、触感! 自然と笑みがこぼれる、そんな愛しくて美しいモノがここにあるんだ! ご覧よ!
今にもスキップで何処かに行ってしまいそうな陽気さのロナウドは、それ以上何も口にすることなく、結局その場を後にしてしまった。だが少年は去り際にロナウドがこう言ったのを、確かに、その両の耳で捉えたという。
……Um, dois, três, uma casa de bolachas! Quero comê-la inteira!