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nしのぶのエッセイ ①やってみること、信じることについて
なんとかやってみようかな
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『エセー』読解入門を買いました。
まだ全然読めていないので内容にはほぼ触れませんが、ミシェル・ド・モンテーニュの『エセー』について、
・ジャンルとしての「エッセイ」の創始者とされるほどの、歴史的意義があること
・『自分というものの全存在を示す』(p.20より)、私自身を語るという姿勢に興味を持ったこと
・『「私はこの世における何者であり、なんのために生きてゆくのか」という問い』(本書の帯より)がなされているということ
などから、関心を持ち、入門書として出会ったこの本を手に取ることになりました。
『エセー』の原題は、フランス語のLes Essaisで、「試みる」という意味の動詞、essayerが変化したものです。書名の解釈としては、『試みられたもろもろの結果』(p.4より)ということができます。
本書の内容をまだ全然理解してはいない私ですが、とりあえず「試みてみよう」、「やってみよう」と思い、この文章を書いています。
もちろん、内容はモンテーニュの『エセー』には遠く及ばないだろう、一般的な意味のエッセイとして、自分の体験や見聞きしたものなどに関する感想やらを書いてみるだけですが。
できればちょこちょこ不定期に書いていきたいけど、基本が怠惰な私は、どこまでできるかな…書くことそんなにあるかな…読みたい人もいないだろうな…などと不安に思う気持ちもあります。
それでも、とりあえずやってみようと思います。
自分語りについて
これまでのnoteにも少し書いたけれど、私は自己開示したり、何かを表現したりすることに苦手意識を持っていました。
こちらの配信でリゼ・ヘルエスタさんが言っていた、自分の短所は『好きなものが少ないところ』、『世の中の大体のものが好きじゃないところ』、『大体のものが怖くて嫌って思っちゃうところ』という発言には、とても共感できます。リゼ皇女はそれでも色々挑戦し、前に進んでいるように見えますが、私はもっと怠惰で臆病なのです。
世の中には自分の気持ちの赴くままに、なんでも挑戦してどこへでも行ってしまうような人たちがいるようですが、私のような人間にとっては、一歩踏み出すこと、なにかに挑戦すること、好きを発信することなどには、とても大きなエネルギーを必要とします。
しかし最近、何人かのクリエイターさんが、「自己を表現すること」について、前向きなことを言っていたのを聞いて、少しずつ考えが変わってきました。
『人間味を見てみたい』『人生を見てみたい』
『人間が味わうことは全部面白いと思うんです』
色んな事柄とか作品に感動したいし感情移入したいんだけど、自分の経験値によってどうしてもわからない時があったりするから 人が何をいいな美しいなって思うのかを聞くのが好きなんだよな...
— さえきやひろ💀 (@saekiyahiro) January 21, 2024
などなど。
どれだけ自分のことが好きになれず、つまらない人間だと思っていても、どこかの誰かは、もしかしたら面白いと思ってくれるかもしれない。
と、勇気づけられ、少し前向きに考えることができるようになりました。
信念と偏見
私は、文章を書くにあたって、自分の考えの偏りや、良くない表現が出ているのではないか、と気にしてしまうタイプです。
しかし、上に貼った『剣持刀也と通話中』の配信の1:14:11でも言われているように、誰しもが「偏見」、「バイアス」を持っているものだと思います。そしてその思考の偏りが、人とは違う点になり、個々人の面白さ、興味深さに繋がっていく面もあるのだと思います。
関係ないですが、その少しあとにリゼ様渾身の『剣持偏見持ち』のライミングがスルーされていて、かわいそかわいい感じだったので見てみてください。
私が重要だと思うのは、「盲信」しないことです。
偏見による思考のバイアスが人の面白さにつながるとしても、程度によっては、自分や他人に害を与えかねないものなので、ある程度は自覚的になって、制御すべきです。
自分の考えが絶対に正しいと思っていては、成長もできないし、考えの違う他人を否定することにもつながってしまいます。
少し話は変わりますが、私は「信念」を持ちたいと思っています。
辞書的には、「揺らぐことのない」といったような意味を含みますが、ここでは、「真理」や「確信」と対比して、「間違っている可能性はあるが、現時点で私がこうだと強く信じていること」といったような意味で使っています。つまり、事実や体験、他人の考えに影響されて、更新可能なものです。
私は、「世の中に絶対の真理などない」と考えています。これも私の信念です(ある種懐疑主義的な考えが私にはあります)。したがって、それぞれの考えの「確からしさ」には留意する必要があり、それを自覚しておくべきだと考えています。
例えば、科学的事実と陰謀論。
科学的事実は確からしさが非常に強く、「真理」であると「信仰」している人も多いですが、これでさえ少し危うい点があると思います。かつては、地球は平らだったし、ティラノサウルスはゴジラのように立って歩いていると考えられていました。近年の具体例は挙げられませんが、科学的事実は他に比べてかなり確からしい証拠などを積み重ねて構築されているものの、より確からしい証拠が現れた場合は、更新可能なものなのです。
一方、一般的に陰謀論とされるものは、(実際の真偽に関わらず)根拠が薄弱なことが多いと思われます。しかしながら、それに反比例するかのごとく、「盲信」してしまっている人が多い気がします。だからこそ、このような名称で揶揄されているのでしょう。
ぐだぐだと書いてきましたが、私は結局、「自分の考えを持つことは大事だけれど、その確からしさに留意する必要があるし、それに固執しすぎるのは良くない」ということを言いたいのです。
最近思うようになった信念としては、「262の法則」というものがあります。「働きアリの法則」という名前なら、聞いたことのある人も多いかもしれません。
私が簡単に調べた限りでは、この法則は「パレートの法則」という一定の研究理論に基づく法則を元にしているものの、主にビジネスやコミュニケーションに応用して提唱されているものであり、厳密な科学的確からしさは薄いように思えます。人によっては、「信ずるに値しない」とも思うでしょう。
これによると、「人はどのようなことをしても2割の人からは好かれるし、2割の人には嫌われてしまう」ということが主張できるようです。
この考えは、その実際の真偽はともかく、私がなにかに挑戦したり、文章を書いたりする際の励みとして「利用」できます。
もちろん人を傷つけるつもりで文章を書いている訳ではないので、配慮をしていきたいと思っていますが、そのつもりが全くなくとも反感を抱いてしまう可能性のある2割を気にしてなにもできないよりは、一歩踏み出した方が自分にとって良いと判断できるようになります。
人は、信じるもの、依って立つところがないと、とても生きにくいものだと思います。
絶対の真実でなくとも、そのことを心に留めながら、よりよく生きるための信念を持っていきたいと思います。