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Tempalay『預言者』に思うこと ──私なりの解像度で

2024年10月3日、私史上最もかっこいいバンドであるTempalayの武道館公演『惑星X』が開催された。


私事により、武道館で直接ライブを体験することは叶わず、悲しみに暮れていたものの、なんと見逃し配信があるということで、スカパー!を契約して映像だけでも観測させていただくことに。


Tempalayとの出会いは、2023年の初め頃。ある友人の紹介で聴いた『あびばのんのん』『そなちね』で衝撃を受け、そこからじわじわと好きになっていき、4th Album『ゴーストアルバム』を通しで聴いて、完全に食らってしまった。
Tempalayの曲は、初めて聴いたときにはその斬新さ、奇妙さから、スッと入ってこないものの、何度も聴くうちにどんどん癖になっていくものが多いと思う。そんな風に私の中にTempalayの音が浸透していき、今では最も好きなバンドとなった。

今年の5月に発売された5th Album『((ika))』は素晴らしいアルバムで、今でも日々繰り返し聴いている。
同じく5月、初めて参加できた『Tour 2024 "((ika))"』のZepp Sapporo公演で浴びた音は最高だった(ヘッダー画像はこのときのもの)。


今年10周年を迎えるTempalay、私が出会ったのは最近で、その歴史を追い切れてはいないけど、これもまた運命。今回のライブで言葉にしてくれたが、私のところに届くまで辞めないでいてくれてよかったと、心から思う。


武道館ライブはアーティストにとって大きなステップの一つだと、音楽素人の私も聞いたことがあるほどに有名なものである。そこに立つTempalayをこの目で、耳で、直接感じたかったのだが、ままならず。
それでも、現地には及ばないだろうが、配信でその姿の一端を観測できたのは、僥倖であった。配信があるとはつゆも思わず、諦めていたので…

ここでは『惑星X』の体験については多くは語らないが、武道館というとても大きな箱舟の中でも、”Tempalayらしさ”をこれでもかと見せつけてくれたのが、嬉しかった。
「わかるかお前ら?」というか、「これがTempalayだ」というか、そんなメッセージを勝手に感じてしまう。
曲の良さはもちろんのこと、バンドとしての姿勢に魅せられているので。



そんなこんなで、今回語りたいのは、5th Album『((ika))』からの一曲、『預言者』だ。


まずはMVについて。

他のTempalayの楽曲のMVは、なんというかもっと奇妙な世界観が表現されたものが多いのだが、こちらは珍しく、バンドメンバーの演奏・歌唱がメインになっている。

しかしながら、その本人たちにはカメラのピントが合っておらず、ボケている。
むしろ、後ろに多数組み合わされ設置された、スクリーンの中にこそ、彼らの姿がはっきり写っている。

私はこのMVが、同じ対象であっても、人々はそれぞれ好き勝手に見て、解釈しているということを表していると感じた。

あらゆる芸術作品や、人間そのものについてもそうだが、私は、それに込められた真の意味・姿は、本人にしかわからないと思っている。
その表現がどこまでわかりやすいものであったとしたとしても、発信と受信には僅かなズレが生じるだろう。

学校で習う国語で、皆さんも評論文を読んできただろう。
評論文は、特定の主張を伝えるため、論理的に文章を構成し、解釈ができるだけブレないように書かれるものである。
それでも人は、案外正確に読み解けないものである。

読み解くものが論理性であれ、込められた思想性であれ、人は多かれ少なかれ無意識に、見たいようにものを見て、感じたいようにものを感じる。そしてその解釈は、それまでその人が経験してきたもの、その人の知識、これまで培われてきた思考パターンに大きく影響される。


『惑星X』では、『預言者』からのパートが撮影可能とされたが、ある記事では、以下のように述べられている。

「ここからは撮影自由です」と告げられると、AAAMYYYの歌から始まる「預言者」では一斉にスマホが掲げられる。すると、その光景を預言していたかのように、スクリーンには無数のスマホで撮影されたような断片的な映像が映し出され、こうしたメディアアート的な試みも実に楽しい。

【ライブレポート】Tempalay、探索船『武道艦』で味わう身震いするような多幸感 より

なぜ撮影可能パートが『預言者』から始まったのか。その理由の一端が、このMVにあると感じる。
スマホで撮影する行為は、ライブの「今、ここ」を切り取り、個々人の所有するスマホに保存する行為だ。
そしてそれは、楽曲を聴いた人間が、それぞれの解釈を持って脳に取り込むこととつながるのではないか。


発売当初に出た記事で、『預言者』のMVに関する分析が書かれた記事があるが、Tempalayのギター、ボーカルの小原綾斗は、以下のように一蹴する。

手厳しい一撃である。
解釈は受け取り手にとって(全くの正解ではなくとも)多様なものが許されると思うが、明確な誤り・的外れというものは存在する。特に作者に直接こう言われてしまうとどうしようもない。

私の解釈も(おそらく当人たちの目には入らないだろうが)、「何言ってんだこいつ」と思われてしまうかもしれない。



それでもこのnoteを書いているのは、結局自分の視点だけでは、全てを理解することなどできないと感じているからだ。
特にTempalayは、クリエイトするものほぼ全てに、様々な意味を込めているのではないかと思う。

つい最近も、こういうツイートがあった。

ゴーストアルバム初回限定盤のジャケ あなたには何が見えますか?

皆さんは「マジカルアイ」というものをご存知だろうか。
上のジャケットのように、一見具体的なものが描かれていないカラフルなイラストを「立体視」と呼ばれる特殊な見方をすることで、隠されたイメージが浮かび上がってくるものである。
日本でも平成中期にブームになって、多く出版されていたので、知っている人もいるのではないだろうか。
詳しくは以下のページにて。


このジャケットは、マジカルアイを知っている人からすると、割とピンときやすいデザインをしている。昔なんかこういうの見た記憶があるなあ…と想起させ、思い至れば、隠されたデザインを見ることができる。

私はかつてマジカルアイの本を持っていたし、友人との会話の中で、この仕掛けには気づいていた。気づいていたけれど、インターネットではそれを語っていなかった。

上のツイートをみて、「ゴーストアルバム 立体視」とTwitterで検索をしてみたところ、約10ツイートしか出てこなかった。
みんな気づいていても語っていないだけ、と思っていたが、案外そうじゃないのかもしれない。人間は語りたがりなところもあるので、気づいたからには、もっと嬉々として語る人間がいても良さそうだ。

見えないものを見ようとして、常識を疑うことは、中々に難しい。



マジカルアイはあくまで一例であるが、Tempalayは、このような仕込みを各所に隠しているのだと思う。
歌詞にしろ、メロディーにしろ、MVにしろ。

そしてそれは、知らない人には、気づくことがなかなか難しい。

例えば。

『ドライブ・マイ・イデア』の冒頭は、

Maddy Soma『AMATERASU』の冒頭のサンプリングだと思われる。
(さらなる引用元があるのかは知りません。ご存じの方がいれば教えて下さると嬉しいです。)

他にも、

『ああ迷路』の1:38秒あたりからのベースは、

『エリーゼのために』の冒頭のフレーズからきているものだと思われる。
このことは、音楽が好きな友人に教えてもらったもので、自分だけだと、ずっと気が付かなかったか、もっとずっとあとになってから気づくことになったのだろうと思う。

歌詞で言うと、インタビューで明らかにされていることだが、『愛憎しい』という曲で、『あのときせいいっぱい生きていたもの同士 永遠に』という詞がある。
これは、宮崎駿が、高畑勲に向けた弔事から取ったとされている。


詞については比較的検索などしやすいが、そもそもここに何か引用されているのでは?と疑問に思って調べないと、たどり着くことはできないだろう。

特に音に関しては、何かあるのでは?と思っても、具体的に調べることも難しい。


このように、Tempalayの作品には、多くの意味が詰め込まれているのだと思う。歌詞に込めた意味も。音色が意図する意味も。アルバム全体のテーマも。きっと私が今思うよりも深いものがあるはずだ。
そして、作品を通して「お前ら本当にわかってんのか?」と問いかけてきているように思う。


私はTempalayのこういうスタイルが好きなのだ。
ド直球でなく、少し斜に構えて。
それでも王道を理解し、単に真似するのではなく、リスペクトを持って解体し、自らの中にしっかり取り入れ再構築する。
常道を理解しているからこそ、気持ちよくズラせる。
人間に対する、諦観と希望の入り混じった眼差しを感じる。


私が理解していることは、きっとTempalayの表現・思想のほんの一部だ。解釈もきっと正確じゃない。
そしてそれは、私がTempalayと同じようなものを摂取し、理解しなければ、大きく変わらないだろう。

だからこそ、あえて、この文章を公開する。
私ならではの視点だからこそ、意味があると信じる。
個々人がこういうことを語り、それぞれの解像度の視点を照らし合わせなければ、いつまで経っても完璧な解釈(そんなものはないのだろうが)などできないだろうから。



そんなこんなで、『預言者』のタイトルや歌詞について、自分なりの解像度で切り取りながら、好き勝手書いていきたい。
異論やこういう解釈もあるんじゃ?など教えていただけるととても嬉しい。


まずはタイトル。
「預言者」というと、宗教的意味とは切り離せない。
アルバム『((ika))』には、『(((shiki-soku-ze-kuu)))』や『NEHAN』といった、仏教的要素がタイトルにされた曲も入っているが、『預言者』は、ユダヤ教、キリスト教で主に使われる用語である。

現代日本では、「預言」と「予言」という似た語が使われている。
語の正確な成り立ちや、この2語の使い分けには議論もあるようだが、ともかく、一般に使われる意味合いの区別としては、
「予言」とは、『未来の物事を予測して言うこと。また、その言葉。』
「預言」とは、『神託を聴いたと自覚する者が語る神の意志の解釈と予告。また、それを語ること。 』
となる。
つまり、物事が起こる前に「予め」(前もって)発せられる言葉と、
神より「預かった」(任された)言葉
という違いがある。

歌詞に関するところでも書くかもしれないが、この曲では、宗教的意味から変化して、「天啓のように自らの心に浮かんだ・受け入れた考えや、楽曲を通して伝えたい世界観・哲学を伝えていく者」という意味で使われているのではないだろうか。


次に、歌詞で語りたい一部について引用していく。

BGMのせいか
きっと人生は革命
いきなりはっとした
恥の多い
暮らしです
BGMちょうだい

「革命」というと現代では主に政治的変革に関する語として使われているが、その語源はラテン語からきており、「回転すること」がもともとの意味である。
「コペルニクス的転回」とも言うが、考え方がぐるりと大きく変わってしまうことを表していると考えられる。

「恥の多い」と聞くと、太宰治『人間失格』の冒頭『恥の多い生涯を送ってきました』が頭に浮かぶ。
この本は何回か読もうとして毎回断念しているので正確な内容は知らないのだが……なにか関係はあるのだろうか。

全体として、BGMのように流し聴きしていた曲によって、今の暮らしの至らなさを認識し、人生観を大きく変えるような影響を受けたことを表していると感じる。

楽曲のことを、何かの添え物のようにBGMと表現してはいるけれど、人はそんな歌によって大きな気づきを得ることもある。まさに天啓のように。


はりぼて山の来訪も
あなた知るためのヒント
さしずめムードは海綿体
非常に恐縮しているの

この辺さっぱりわからない
言葉選びも意味もかなり謎
誰かそれっぽい解釈ができている人はいるのだろうか?
「預言者」で「山」といえば、モーセの十戒が思い起こされるが……


目には目を邪には邪をなんて思ってる
ペンで吐いてとってつけたような歌詞だろ

「目には目を歯には歯を」のもじりだろう。
このフレーズは「ハンムラビ法典」のものとして有名だが、「旧約聖書」にも同様の記述が存在している。楽曲全体のテーマからして、こちらからの引用だろうか。

後半部分は、自虐のようにも読めるが、外部からの批判のことを指しているようにも読める。流れからして、後者だと思うが。


ましてや解体新書
ちゃんと選んで描いてく

直前引用部に続き、とってつけたテキトーな歌詞でなく、しっかり考えて書いているということだろうか。

「解体新書」とは、西洋の医学書を日本で翻訳したものであり、歴史上非常に大きな意義を持つが、誤訳なども多く含まれているという。

神の言葉を受け取って、正確にわかりやすく伝えようとしても、受け取る人には100%は伝わらない。翻訳にも、読解にも、誤解が生じてしまう。
それでもできるだけしっかり描いているんだという主張を感じる...…というのは深読みのしすぎだろうか?

ちなみに、「解体新書」という言葉は、『そなちね』でも使用されている。

解体新書 東西へ飛んで
五臓六腑 浸透したいもんです

『そなちね』より

西洋と東洋のいいところをかき集め、人の心を理解し、伝えたい
ということ?

少なくとも、何かしらの思い入れのある言葉なのだろう。


わたしはね預言者なの
あなたにもっと素敵な未来
訪れる 訪れさせよう
イカれてるって思うのかな

タイトル回収。なんならアルバムタイトルも含まれてる。

楽曲を通してメッセージを伝えようとする「わたし」(バンド)こそが、上記したように、「天啓のように自らの心に浮かんだ・受け入れた考えや、楽曲を通して伝えたい世界観・哲学を伝えていく者」、つまり「預言者」であるということだろう。

神の言葉を聞き、こうすれば皆の人生をよりよくすることができると吹聴して回るような人は、現代では確かに「イカれてる」と思われてしまうかもしれない。

しかし、アーティスト・クリエイターの本質の一端はそこにあるのではないだろうか。
歌や芸術を通してなら、そんなメッセージも発信できる。そして、私達も比較的容易に受け入れられる。
というようなことが、実際にあるのではないだろうか。
私もそれを実感している。


未来のこと話せるより
今何思ってるのか知りたい
馬鹿なことって分かるけれど
気持ちよくおくり出してよ

「予言」より「預言」ということ?
預かった言葉がみんなに伝わるかわからない馬鹿みたいな内容でも、伝えていこうということだろうか。なんか違う気がする。


きっと人生は革命
カミナリはっとした
生き恥かいて歌うんです
BGMじゃないわ

冒頭部分と似ているようで異なる表現になっている。

後半部分、最初はBGMと言っていたところを否定している。
冒頭で、他の人による、あまり意識せず不意に聴こえたBGM(天啓・預言)によって受けた影響により考え方が変わり、どれだけ突拍子もない馬鹿で恥ずかしいような内容でも、自身が再びしっかり伝えていくから、BGMとしてではなく、しっかり正面から聴いて受け取ってくれ、というメッセージに思える。

そして人生・世界というのは、その繰り返しなのではないかとも思う。
人はある人が発信したメッセージを受け取り、それぞれに解釈したうえで、自分好みのメッセージを再度発信する。
私のnoteも、その一端を担えていればいいな、とも思う。


最後に、これまで触れてこなかったサウンド面について。
私は音楽方面の知識に乏しく、語彙もないため、中々こちらの側面の分析ができない。
しかし、友人が語った言葉には、なるほど、と膝を打った。

Tempalayの楽曲は、個性的で聴き流せないようなものが多い。
しかしその中で『預言者』は、かなりBGM的に聴き流せる音になっているというものである。
確かに、CMやどこかのショッピングセンターで流れていても、それほど違和感がないように思える。

そんな聴きやすいサウンドの中に、不思議で捻った歌詞や、伝えたい思想が込められている。
BGMのように聴けるが、実はBGMなんかじゃないんだぞ、という、最後の歌詞に合わせた主張なのではないだろうか。


以上、少々まとまりがないが、これが私なりに『預言者』の内容を切り貼りして、発信したかったことである。
一貫性がないかもしれないし、ピントがブレブレかもしれない。
私には、これまで自分が摂取してきた範囲でしか、語彙も、音も、思想も存在しない。

誰もが発信者になり得るこの現代。
繰り返しにはなるが、だからこそ、あなたならではの解像度で、言葉を発信してみるのはいかがでしょうか。
いつかきっとどこかの誰かに届き、反響が戻ってくると信じて。










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