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【コンサートミニレポ#5】カーゲルのような作曲家はエスタブリッシュされるくらいならネタ枠にいた方がずっとまし(なのか?)-神奈川フィルハーモニー管弦楽団「華麗なるコンチェルトシリーズ」第23回

カーゲル《ティンパニと管弦楽のための協奏曲》がバズリティ高めで大人気。でも、私にとってカーゲルは研究対象に限りなく近い存在で、笑ってばかりもいられない。書きかけだったのだけれど、いろいろあって(後半わかる)急遽書き上げました。もともと「カーゲルのような作曲家はエスタブリッシュされるくらいならネタ枠にいた方がずっとまし」というタイトルのつもりだったのに、突然疑念が浮上して「(なのか?)」が付随してしまいました。ある意味で「後半へ続く」です。
サムネイルは当日の写真がなかったので、12月4日駒場キャンパスの朝の写真。この日、川島素晴先生の授業でケージの《Branches》をやるために朝早く学校に来て植物を集めていた。なんかこの構図は小奇麗な私大のキャンパスみたいね。


神奈川フィルハーモニー管弦楽団
華麗なるコンチェルトシリーズ第23回
2023年12月9日(土曜日)

開演時間 14:00
公演場所 横浜みなとみらいホール
指揮者 川瀬賢太郎
共演者 阪田知樹(ピアノ)篠崎史門(ティンパニ)
主な演目
カーター・パン/スラローム
カーゲル/ティンパニと管弦楽のための協奏曲
ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第6番ニ長調Op.61a(作曲者自身によるヴァイオリン協奏曲編曲版)
主催 神奈川芸術協会

ついにきたカーゲル人気?

高校の後輩でもある友人に誘ってもらった演奏会。カーゲルの《ティンパニと管弦楽のための協奏曲》の話を私がしたことがあって(覚えてないけど)、それで声を掛けてくれたようだ。たいていひとりの私にとっては隣に人がいるのが珍しすぎて、つい思ったことを口に出してしまう。楽しい。
2000席のみなとみらいホールがほぼ満席。来月(2024年1月)にも東京シティフィルがカーゲルの《ティンパニ》を演奏するらしいがそちらもすでに完売ということで、カーゲル人気がすごいらしい。いや、カーゲルが人気な訳はなく、《ティンパニ》が人気なのだろう。
カーター・パン、カーゲル、ベートーヴェンというよく分からない組み合わせ。もしかして、ベートーヴェンからの引用がある《スラローム》とベートーヴェンを、《ルートヴィヒ・ヴァン》など多くのベートーヴェン引用作品を持つカーゲルで繋いだということなのか?と思ってみたり。もちろんティンパニに肖って打楽器活躍曲みたいなこともあるのだろう。こういう現代作品と古典作品を組み合わせるのはしばしば評価される方法である。けれど、今回はカーター・パンもカーゲルも現代作品としては異例の引きのある音楽なので、古典作品に頼らずとも何とかなる気もする。カーター・パンは楽しかったし、個人的にはベートーヴェンで阪田さんの演奏にあれ……?という感じがしたのだけれど、他にそういうことを言っている人がいないので気の所為かもしれない。

インストゥルメンタル・シアターは拡張奏法の延長線上にある

問題はカーゲルだ。
結論から言えば、インストゥルメンタル・シアターという概念について熟考を迫られるものだった。インストゥルメンタル・シアターは、一般には楽器の演奏者を役者(アクター)として捉えることにより、音楽におけるシアター性を前景化させる仕掛けとして考えられている。そして、当然のごとく「ティンパニに頭から突っ込む」行為もその一環として捉えられる。しかし、作品全体を観てみるとわかることだが、これは単なるアクションではない。ただ、演奏者も役者だから頭を突っ込んじゃったりもするのです、という生易しいものではない。
それでは何か。これは明らかに拡張奏法である。ティンパニによって展開される様々な拡張奏法が見事なのであって、頭を突っ込むのはその一つでありゴールに過ぎないのである。「ティンパニに頭を突っ込む」アクションは、単立の行為ではなく、拡張奏法を介して演奏が拡張された末の行為であると理解すべきなのだ。

イロモノだって悪くない

そういうわけで、《ティンパニ》を「頭を突っ込む」作品として理解することは矮小化であると考えざるを得ない。カーゲルのことを「突っ込んだり」「倒れたり」する変な作曲家であるとみなす向きは少なくない(というか99%そうだ)が、20世紀の音楽史においてカーゲルはケージと並んで最も重要な存在だと少し大袈裟に言いたいくらいだし、実際のところ私の研究分野(ニュー・ミュージックシアター)においてケージとカーゲルは二大巨頭であると断じて間違いない。
それでは、カーゲルはより「真面目な理由で」評価され、音楽史における偉人として位置付けられるべきなのだろうか。イロモノ作曲家としての現状から脱却すべきなのだろうか。私にはそうは思われない。このような「面白い」作曲家がエスタブリッシュされてしまうことによって「面白くなく」なってしまう例は枚挙に暇がない。いまやジョン・ケージですらそうなりつつある。「エスタブリッシュ」(=「非イロモノ化」=「偉人化」)はろくなことがない。エスタブリッシュされるくらいなら、イロモノとして扱われる方がまだ何十倍もましだ。できれば、《ティンパニ》と《フィナーレ》以外にもたくさんある面白い作品が演奏されるようになるとよいけれど。

でも、無理解は

と書いていい感じにまとまる予定だったのだが、トイッター上の議論に触れてそうも言っていられなくなってきた。それは佐藤瀬奈《-傀儡- necrophilia》についての話で、詳しくは次の記事に書く。気になったのは、カーゲルないしニュー・ミュージックシアターに対する無理解である。別に一般の人が無理解であるのは当然であるし、いわゆるクラシック界隈でも理解されないことは想定できる。しかし、いわゆる現代音楽の作曲家や演奏家があまりに無理解であることは少し驚くものであったと同時に、日本の音楽学がこの分野に関して機能してこなかったことの帰結であるように感じられる。ニュー・ミュージックシアターを研究することによってカーゲルをエスタブリッシュしてしまうことは本意ではないが、せめて作曲家・演奏家に対して伝わるくらいにはこのあたりの理論化をしていく必要があると痛感させられた。音楽は理論じゃないし、理論的に説明されても聞きたくない、と言われたらどうしようもないけれど。「ティンパニに頭を突っ込む」ことにもそれなりの論理があるわけなので。

上記のデイリーポータルZの記事、意外に悪くない。特殊奏法への言及もしっかりある。下の引用部分に至っては、プロのような鋭い観察眼である。

単にパフォーマンスとして面白くてワハハ、という話ではなかった。行為だけ取り出せばコミカルなのだけど、曲の中で行われるそれは、とにかく緊張感とエネルギーと気迫に満ちていたのだ。

デリポ、舐めてはいけませんな。

↑実質的な「後半へつづく」。こちらもぜひ。


(文責:西垣龍一)

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