【コンサートミニレポ#8】真正性⇔制御不可能性⇔即興【「東大生 VS 川島素晴 feat. 国立音大生」をふりかえる③】
前半②はこちら。
関口由翔《Authentic》
この作品には裏話がある。このゼミの受講生のうち何人かは「音楽論」(教員:中井悠)を履修していた。私が4つ掛け持ちしていたティーチング・アシスタントを担当した授業のひとつである。この授業は「偽西洋音楽史」の題目で、たとえばHIP(Historical Informed Performance=歴史的考証にもとづくパフォーマンス)とそれに対するリチャード・タラスキンによる批判といった「本当」と「偽」をめぐる音楽史上の「事件」を軸に展開された。
《Authentic》という作品は同時に演奏される複数の演奏のうちどれが「本当」でどれが「偽」なのか見極めることの困難さについての音楽である。実は、練習の過程で作品が最初の提出時からもっとも変化したのはこの作品ではないかと思われる。国音で行われた初めての合同練習から、各演奏者によってさまざまな意見が提示され、作曲者はそのたびに作品を改善させていった。このような状況が生まれたのは、この作品に向き合うにあたっては「Authentic(真正)であるとはどういうことか」という問いに各自が直面せざるを得なかったためである。
観客が「本当」と「偽」を見分けることの困難さをコンセプトとしていたはずのこの作品は、結果的にそもそも演奏者の側が「本当」と「偽」を提示することの困難さを顕わにしたといえる。そしてその困難さは、そのまま「Authenticity=真正性」という概念の困難さにつながっている。その意味で、この作品の意図は(観客にまで伝達し得たかは別として)達成されたように思われるし、「困難さ」に正面から挑戦した意欲作といってよいだろう。
Terry Riley《In C》
何が起こったかはツイート①②(山田奈直さんにはいろいろな面で本当にお世話になった。これだけの大人数をまとめるには山田さんの助力が欠かせなかった)および川島先生のブログ(上記引用)を読んでいただきたい。なお、私は(東大側だけれど)まったく知らず、唖然とした側である。仕掛けた側の言い訳(?)は打ち上げの席で聞いた。ここで個別の(本番の)演奏について何かを語るつもりはないし、そうする意味もあまりないように思われる。ただ、ここでは本番で行われた「出し抜け」的即興についての音楽的・美学的な許容(不)可能性について考えてみたい。
ここで起こった不思議な事態とは「即興」をめぐるものである。《In C》という作品は53のモジュールを順番に任意の回数繰り返して演奏するというもので、その作品の本来的な性質として即興性を含んでいる。さらに、53のモジュール以外の演奏を行う完全な即興もライリーは認めているという。そう、この時点で《In C》の中で即興をおこなうこと自体が問題にはなり得ない。
とすれば、問題はもっと限定的だ。つまり、即興自体認められているにしても、前もってなされた合意に反するような即興(ここでは「出し抜け」と呼ぶ)は認められるべきなのだろうか。
膨大かつ緻密な練習を前提とするクラシカルなパフォーマンスへのアンチとして「即興」を考えるならば、「出し抜け」は認められねばならないように思われる。「出し抜け」ることこそ形式からの自由であるからだ。形式からの逸脱、奔放さ、自由、解放されていること、は政治的な意味もあって即興の重要な要素である。事前の合意を破棄するという「出し抜け」は《In C》を生んだところのヒッピー文化的空気感そのものとさえ言ってよい。
ここでいったん、ジョン・ケージという一人の音楽家へと話を移し、それからもう一度この議論の続きをしたいと思う。ケージはここまでの議論を転覆させる力を持っているかもしれない。
John Cage《Branches》
ジョン・ケージは(おそらく多くの人にとって意外なことに)即興を嫌った。その理由は、一言で言えば「即興は制御されている」ということだった。ケージは制御されることを嫌った。そのために、易経に頼るなどして偶然性と、図形楽譜の導入によって誕生する不確定性を組み合わせることで、制御から逃れる術を獲得した。
即興が認められないのは、制御されているからだ。ケージの考えでは、即興は演奏者の過去の経験によって制御されている。自分の内からは新しい何かは生まれえないのだ。
ところが、今回の演奏会で第一部の最後で演奏された《Branches》は演奏方法が指示されていない、つまり即興が認められている。なぜか。
《Branches》は、10種類の植物を楽器として使用する作品である。10種類のうち2つは「増幅されたサボテン」(今回は松ぼっくりで代用)と「ホウオウボク(メキシコ原産の巨大なマメ)」と指定されている。各人の演奏時間は8分と決められており、その中でどの楽器をどの時間に演奏するかは易経(コイン投げによる偶然性)によって決定される。(この段落は私自身が書いたプログラムノートからの引用)
そして、その植物を演奏する方法については指定がない。それは、ケージによれば、誰も植物を演奏したことのある者はいないため、過去の経験がなく、それゆえ即興しても制御されることはないからである。ピアニストはいくら即興といえども、過去のピアノ演奏の経験の外に抜け出ることはできない。しかし、サボテニストもピーマニストもナツミカニストもいないではないか、「手癖」が存在しないなら自由だ、というわけである。まあこの主張については私自身首を傾げたくなりもするのだが(しかも今回演奏してみて、指定されているホウオウボクは少し楽器的すぎて演奏方法に拡がりがあまりなく、「非楽器」的なよさが出ていないように感じられた)、それはともかく重要な示唆は、「即興は制御されている」ということである。「即興」に「制御(不)可能性」という概念を重ね合わせることで、先の「《In C》出し抜け即興」問題をもう一段階進めてみよう。
Terry Riley《In C》(後半)
「出し抜け」が悪であるとすれば、それは「制御する側」と「制御される側」が峻別されることにあるように思われる。つまり、「出し抜け」る人はその瞬間に演奏を「制御する側」へと回り、一方で「出し抜け」られた人はそれに付いていくほかなく「制御される側」に甘んじることになる。私は、演奏者内に「支配-被支配」の関係が生まれる「出し抜け」の構造を問題化したい。《In C》の即興とはおそらく双方向的なコミュニケーションによって成り立つものである。実際に、ライリーが国立音大で開催された講座で繰り返していたのは、互いの顔を見ることであった(「Smile!」と何度も言っては笑いを誘っていた)。その意味で、「出し抜け」的即興は、ライリーが意図する即興とは相いれない性質のものだと結論づけてよいだろう。
しかし、さらにひっくり返すようなことを言えば(議論がだるくてごめんなさい)、ライリーの意図に従う義理などどこにあるのか、という主張もできる。作曲者の意図に「Authenticity」の所有権があるのだろうか。そんな話をはじめればまたキリがないのだが、ここでロラン・バルトの名を挙げるまでもなく作曲者が演奏を制御してしまう事態もまた明らかに問題含みである(演奏者は作曲者の奴隷なのか?)。ケージの「不確定性」はまさに作曲者が演奏を制御してしまう事態を避ける方法として有効であったのだ。
また、ミニマル・ミュージックに内在する問題を指摘することによって「出し抜け」を正当化することも可能だ。作曲家の間宮芳生は、ミニマル・ミュージックの代表的な作曲家のひとりであるフィリップ・グラスの催眠的な音楽に対して、厳密にはその聴取について重要な指摘をしている。間宮はニューヨークで行われたグラスのコンサートにおいて「秘密結社の祭儀の場」のような空間に白人ばかりが集まって集団的熱中を引き起こす様子は異様であったと指摘したうえで、そのような集団的熱中は「過激なショーヴィニズム(排他的民族主義)などにもすり変わってゆく危険をはらんでいる」(間宮芳生「続・作曲家の現在 同時代が産んだ双生児 聞き手まかせのケージら グラスの集団的熱中」『朝日新聞』1987 年 2 月 17 日、夕刊 7 頁。)とする。合意によって作り上げられたコミューン的インターコミュニケーションによる催眠的な音楽については、私もこのような批判がおおよそ適当なものと考えている。「出し抜け」という行為は、このような集団的熱中に「水を差す」ものとして有効に機能している。
しかし、さらに再反論すると、そもそも今回の演奏がミニマル・ミュージック的な集団的熱中を作り出すことができていたのかといえば微妙なところではある。たしかに4回の合同練習でそれぞれのコミュニケーションを深め、アイコンタクトをとりながらの演奏をかなり実行していたとはいえ、出会ったばかりの二つの大学の学生が数回の練習を経ただけでヒッピー文化的熱狂が作り出せるものではないだろう。今回の「出し抜け」が何らかのアンチであったなら、その効果は薄かったように思われる。
と、「ひとりディベート」みたいなことを延々としていたら少しずつ虚しくなってきたので終わりにしたいと思う。別に「出し抜け」側も深い意図はなかっただろうし、深い意図は必要ないし、それを考察する必要もない。だいいちこれだけ論をめぐらせたところで、結論は「演奏にはいくつもの方法が考えられ、そのうちの一つとして存在してもよいだろう」くらいの身も蓋もないものにしかならないのだ。ただ、これほど考えを巡らせてしまうほどに(「出し抜け」られた)演奏者たちにとってはかなりの不意打ちであったのである。
なお、当日の観客のなかにはこの「出し抜け」行為に気づいた人はあまりいなかったようで、肯定的な声が多く見られた。「出し抜け」られた側が動揺しているのも気づかれなかったようである。これは「出し抜け」られた側チームのみなさん、誇ってもよいのではないでしょうか。
そして私にとっては何よりも、昨年国立音大講堂大ホールの客席で楽しく聴いていた《In C》をこのように演奏することになるとは思ってもみなかったし、しかもそのとき台の上にいた人たちと演奏することができたことがとても光栄だった。
(アンコール)《In C》風
お客様にお配りしていたチラシに五線譜がついており、「自由に書いてください」としていた(これを仕掛けたのも若林さんである)が、これをどのように使うのか当日まで明確でなかった。当日開場直前になって、川島先生の発案でお客様の楽譜を切り貼りして《In C》風に演奏することになった。
当日は初見視奏に没頭するあまり作品の全体像がよく分からなかったが、改めて動画を見返すとなかなか形になっている。ちなみにこの楽譜は休憩時間に私を含め3~4名で作ったもので、若干の作為こそあるものの(ラストにシュルホフばりの顔文字☺をもってくる等)基本的には偶然に任せて並べられていった(作為的に貼り進めるほどの時間はそもそもなかった)。ところが、演奏を聴いてみるとモジュールの順序もまるで制御されているかのように、前後のモジュールが交じりあっているように感じられる。
緻密に設計されたライリーの作品と、休憩時間に適当に貼り合わせられたアンコールが同時に演奏された興味深さは、図らずも制御/即興の問題群と響き合っている。
西垣龍一《ミッ●ーマウスにおける著作権の意義》→若林出帆《USJにおける著作権の意義》
西垣龍一若林出帆《ミッ●ーマウスUSJにおける著作権の意義》
(上行のクレジットの方がより正確。見出しに取り消し線が使えないため見出しは別表記。)
私はこの作品の元作曲者である。まだ本当の作曲者であった頃に書いたように、この作品は複数のコンセプトが同時多発的に呈示されシアトリカルに展開されている。
当日まで隠されていたコンセプトは、この楽曲が「乗っ取られる」ということである。3つの楽章に分けられているこの作品は、2楽章で演奏者・作曲者ともに酔いつぶれ、3楽章では酔っぱらった作曲者がこの作品のナビゲーターと喧嘩して会場外に追い出される。そこで、ヨッパライ演奏者のなかから新たな作曲家が登場して作品自体を乗っ取るという構造をとっている。
この演劇的構造は、ドラマ性を導入したいという意図ではなく、むしろ「作曲家による作品の制御」という問題に関わっている。つまり、作品に対する作曲家の絶対性をめぐる音楽哲学的問題(先にも触れているので繰り返さない)に関連する形で、作曲家の制御から作品を解放する手段の一つとして「乗っ取られ」を用いている。
なお、演奏者たちが酔いつぶれてまともに演奏できなくなることも、作曲家が制御できなくなる一つの方法である。また、この作品は「プログラムノート音楽」と題されていたのだが、3楽章ではプログラムノートとは別の内容が繰り広げられる(乗っ取られるため)。プログラムノートによって作曲者が観客の聴取を制御しようとすることに対する批判をここでは含んでいる。
川島先生には楽曲の途中で新垣隆氏にゴーストライトさせる作品(《山羊座のモトハルと双子座のピペットン》、私が川島先生のことを知ってすぐのころにこの作品をYouTubeで視聴し衝撃を受けた。この衝撃を超える音楽にはその後も出会っていない)があるが、これは本当にゴーストライターをやっているのではもちろんない。この作品の場合、ほんとうに楽曲の最後に作品ごと乗っ取るのであって、あのラストはチェロ奏者であった若林さんが「作曲」したものである。その意味で本当に制御できなかったのであり、実際まさか曲名ごと変えられるとは、そして「これだから文系院生は」などと悪口を言われているとは思ってもいなかった(笑)。
誰が乗っ取るのかということについては直前までいろいろあって決まらなかったのだが、急遽若林さんにお願いした。結果として、若林さんの強烈なセンスに支えられたオチが完成して大成功だった。制御不可能性に身を任せるのも悪くない。
そして面白いのは、作品を乗っ取るエネルギーを獲得した彼が、勢い余ってライリーまで乗っ取ってしまったことである!実は伏線はすでに張られていたのであり、しかもその伏線を私が張ってしまったのだと気づくと頭を抱えるばかりだが笑、ともかく《Branches》《Authentic》《In C》という作品群が音楽成立の過程における制御不可能性の問題に根ざして存立していたと捉えることはできよう。そして、(もともと)私の(作品でありいまや乗っ取られてしまった)《ミッ●ーマウスUSJにおける著作権の意義》も、「NTR音楽」(乗っ取られ音楽)という新たな作曲の可能性を志向するものであると、(もう作曲者ではないのだから自惚れであるとか気にすることなく)断言してしまってもよいだろうか。
(文責:西垣龍一)