「なにもおこらない日常にある配慮」
ある日、駅のホームでのことでした。空き缶がころがっていました。「誰かポイ捨てしたのかな」。すこし不快な気もちが生まれました。その時、それをスッと拾ってゴミ箱に捨てる人がいました。とても自然に、当たり前のようにそれをしてくれました。うれしい気持ちになりました。
私はその人が空き缶を拾って捨ててくれたことを見て、知っています。しかし、後からこの駅に来る人は、その人の行いを知ることはないのでしょう。空き缶があれば、それを見て「不快」に思う人がいたかもしれません。けれども、その空き缶は捨てられたのですから、後から来る人は、何事もなくそこを通り過ぎていくのでしょう。
その方が空き缶を捨てたことによって「何も起こらなくなった」のです。何も起こらないのだから、知られることもありません。褒められることもないでしょう。しかし、その方が空き缶を捨てたおかげで「何事もなく」後の人は駅を通っていくのです。
私たちは大きな事件が解決されたり、かけられた疑いが晴らされたりする物語に面白さを感じます。問題やトラブルを見事に解決する主人公に喝采をあげます。しかし、ほとんど気づかれることもなく通り過ぎてしまう「何も起こらない」ことの中にも、たくさんの配慮や素敵な行為があったのではないでしょうか。そういったことに、あまり目が向けられることはないのだけれども。
思えば、今年はたくさんのことが起こりました。新型コロナウィルスの流行。大雨の被害。何か事が起こってしまったときの大変さ、そして「何事もない」ということのありがたさを感じる時間を私たちは過ごしていたのではないでしょうか。
「何事もない」「何も起こっていない」けれども、それは「誰も何もしていない」ということではありません。誰かが当たり前のように、何事も起きないように、話題にもならないことを当たり前におこなって、「何事もなく」私たちは日常を過ごしているのではないでしょうか。こういった見えないところのはたらきを、英語では「アンサング・ヒーロー」(讃えられることのない英雄)というそうです。ふと思うと、もっと自然に「おかげさま」と私たちは言葉にしていたのではないでしょうか。それこそ、当たり前のように。
(2020年11月 「ないおん」11月号「育心」掲載)
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