2024.01.01 令和6年能登半島地震体験記
能登半島地震で震度6?7?を実家で被災したので経験談として書いていきます。
地震の内容なので、みるのが辛いという方は無理せずスルーしてください。 停電で情報がない中に書いた拙い文章です
自分が見たもの経験したものを書いたものなので、間違っていることもあるかもしれません
前提情報
家族構成は父・母・妹・父方のおばあちゃん(高齢で痴呆気味)・自分の5人。
自分以外は能登町の実家暮らし
自分は東京から年末年始で12/29から帰省。1/3に東京に戻る予定だった
のんのんびよりレベルのガチ田舎。最寄りのマックは50km先
都市ガスはなく、みんなプロパンガス
下水道もなく浄化槽(電気必要)を各家庭に設置している
【1日目】(1/1 地震当日)
居間のこたつでご飯とお酒を飲みながら正月番組をみながら父・妹と3人で過ごす。
所さんの番組だったかな。
至っていつも通りの寝正月。
母は洗濯物の整理をし、おばあちゃんは自室で過ごしていた。
うとうとしていると、家がミシッと鳴り地震が来た。
父「おー、ちょっと強いな」
スマホの緊急地震速報が鳴り、少し強めに揺れたが5秒ぐらいで収まった。
俺(ちょっと強かったけど、まー大丈夫だな)
能登半島は2020年頃から群発的に地震が起こっていて、度々震度4とか5弱ぐらいはあった。今回もそれの一つだろうなと、家族も思っていた。
俺「うおおおおおすげぇ揺れた」
そんなことをTwitterにポストする
父の携帯が鳴り、つい2時間ほど前に新年の挨拶をして別れた金沢に住む叔父さんから、「大丈夫だったか?」と連絡が来た。
父「まー、いつもの感じだったし、特に被害もないね。屋根の雪がどっさり落ちたときぐらいの揺れやったかな」 (※もっと方言きついけど標準語にしてます)
と、いつものようなやりとりをしていた。
時刻は16:10。まさにその瞬間だった。
テレビの音をかき消すような轟音が聞こえ、家が揺れ始めた。
ドン!
経験したことがない突き上げと共に上下左右に揺さぶられる。
絶叫する父。泣き叫ぶ妹。こたつに潜れと叫びながら必死にテレビを押さえる俺。緊急地震速報が鳴り叫ぶスマホ。
すぐに停電した
10秒ぐらい経っても揺れがおさまる気配がない
食器棚の陶器やガラスが割れる音が家中に響きわたる
家が壊れて死ぬのを覚悟した
これで俺の人生終わるのか
そんな考えがめぐりつつ、体感1分ぐらいしてようやく地獄のような揺れがおさまった…
立ち上がって動き始めた。
家中ものが散乱している。
すぐにスリッパをはき、母とおばあちゃんの居場所を探す。
「おかん!おかん!」
居間を飛び出し階段の下から叫ぶ
「おかんどこや!」
2階から弱々しく「廊下におる」と声が聞こえた。
階段を駆け上がり、母親を確認して階段を降りる。
「ばあちゃん!ばあちゃんどこや!」
おばあちゃんの部屋の扉をあけて叫ぶ
タンスがひっくり返っている
下敷きになってないかとヒヤッとした時、玄関から「外におる」と声がした。
家族全員無事だった。
「外に出るぞ!」「瓦に気ぃつけや!」
玄関の扉を全開にして、着の身着のままスリッパのまま外に出た。
家の前の砂利やアスファルトが地割れしている。
でも家自体ははなんとか大丈夫そうだった。
正面の蔵は壁が剥がれ落ち、昔使っていた倉庫は傾いてシャッターが上がってしまっていた
「えらー酷かったねえ…」
隣の家の人もラジオを片手に外に出ていた
スマホを見るとドコモの電波が生きていた。メインはソフトバンクだったが、メイン番号のahamoの契約を残してサブSIMに入れていたものだ。
「能登で震度7」
そんな情報が飛び込んできた。
内心、そりゃそうだよなと納得した。
人生であんな揺れは経験したことがない。
強いて言うならジェットコースターが近かったように思える。
足が震え始めた
ようやく恐怖心が追いついてきたみたいだ
割れたアスファルト。競り上がって段差が出来た橋。土壁が丸ごと剥がれかかった蔵。割れた地面。先日の大雪で積もった雪も割れている。
また揺れはじめた。揺れの前の地鳴りがすごい。
近所の人と情報交換してから、家にもどる。
玄関と廊下は割れた花びん、ひび割れた壁紙、石膏ボードの擦れた粉でめちゃくちゃになっていた。
客間のテレビは見事にひっくり返っていた
俺があげた55インチのテレビオワタ…
ダイニングは食器やコップの割れた破片がいたるところに散乱していた
車庫は靴箱がひっくり返って車によりかかっていた
ひとまず靴箱をたてたがボンネットは凹んでしまっていた
車庫から車を全て外の安全な場所に出し、
「家から当面使うものを玄関にまとめて出そう」となった
・財布
・定期的に飲まないといけない薬
・食料、飲料
・毛布
・衣類、下着
・トイレットペーパー
・タオル
無我夢中で必要そうなものを玄関にだして、それを車に詰め込んだ。
帰省で使っていたキャリーケースにも物を詰め込んだ。
ゴォーッと地鳴りがした後、グラグラ…と余震が続く。
いつ強いのが来るか分からず、家に戻れない。
体感1分に1回は揺れている。
とりあえず揺れたらすぐに逃げられる家の平屋部分にある車庫で過ごすことにした。
大雪で停電することが増えていたのでたまたま買っていた電気の要らない石油ストーブを出して暖をとり始めた。
山の方から夫婦が歩いて降りてきた。
地震で前の山が土砂崩れして車庫が押し流されてしまって車が使えなくなってしまったとのこと。
最寄りの集会所に人が集まってとりあえずの避難所になっていたので、足腰の弱いうちのおばあちゃんと合わせて送り届けた。
集会所は一人暮らしのご老人でいっぱいになっていた。
道中、橋では段差ができ、アスファルトにはヒビどころか大穴があいていた。
集会所はそんなに人が多く入れないので、自分達はどこに避難したらいいかと考えていると、妹が近くに能登空港があるのを思い出した。
平時であれば車で10分ほどの距離だ。
(能登基準で)比較的新しく、あそこなら行政関係の事務所もあるので、備蓄もあって避難出来るかもと考えた。
ドコモはこの時使えていたので自分・妹・母の3人で空港の様子を見にいった。
途中の道路(珠洲道路)は大規模な土砂崩れや路面崩壊で寸断寸前だった。
特に当目と大田原の間にあるインターチェンジ式の道路は、流入のランプと本線が土砂崩れと大岩で塞がっていた。
大岩の横には巻き込まれて横転した軽自動車。
降りて誰もいないことを確認した。どうやら自力で脱出した後のようだ。
横転した軽自動車の横を見ると辛うじて、本線から降りる用の1車線が通れそうだった。
周囲のドライバーと話し合いながら、ランプを逆走して能登空港の方へ進んだ。
珠洲道路(奥能登地域の大動脈路線)はアスファルトはめくれあがり、路面は波打ち、土砂崩れで半分塞がり、路肩は落ちていた。
無理しないように、前後のドライバーと話しながら進めるルートを選びながら進んだ。
いつもなら10分ほどの道のりを、40分ほどかかって能登空港に着いた。
能登空港では簡易的に警察と行政の方が、ドライバーからの情報を集めてホワイトボードに書き出しながら空港の備蓄を配る準備をしていた。観光バスや路線バスも止まっていた。みんなで情報交換するとこの先、輪島までは三井で土砂崩れ、穴水までは道路損壊で進めないらしい。能登半島の中心で孤立状態だ。
能登空港も電気・水道がやられていて、建物へは入れず、外の道の駅のトイレは長蛇の列になっていた。
ここに滞在するか悩んだが、人も多く食料や水がいつまで得られるか分からず、寝る時も車中泊しかなさそうで、トイレも流せないので致命的な状況とのことで、これなら自宅に戻って過ごすことにした。
車庫で正月に食べていたオードブルや大晦日の残り、お菓子を少しずつ食べた
外は-3℃。車は3台。余震が続く中、家で寝れるわけもなく、車のエンジンをかけ、暖房をつけて眠りについた(寝れるわけもないが)
【2日目】(1/2)
基地局お亡くなりで連絡手段喪失
情報源がラジオのみに
集会所の備蓄などで近所の方が炊き出し
停電していたがドコモは使えていた。
基地局のバッテリーでしばらく動いているらしい。
使えているうちに情報を集めた
・通れる道、通れない道の把握
・災害伝言板に書き込み
などなど
そうこうしているうちに圏外になってしまった。
時刻は3:20。約11時間耐えていたらしい。雪による停電が多い地域なので、バッテリーを詰んでいたみたい。ありがとうドコモ。
auは持ってなかったので集会所に居た人の情報だがおおよそ以下の通りだった。
・ドコモ:1/2 3:20頃停波
・au:1/2 14時頃停波
・SoftBank:地震中に停波(停電と同時)
※1/3にはハイエースの移動基地局の車がどんどん入ってきていて、災害対策はauが最強だった
ドコモとソフトバンクしかなかったので、ここからネットの情報を得られなくなった。
この日は結局一睡もできず、6:30ぐらいになって外が明るくなってきた。
日の出は7:06。快晴なのですごく寒い。
起きたらまず、ダイニングの掃除を始めた。
大量の食器が割れて散乱していたのをとりあえず箒とちりとりでまとめて、米袋に詰め込んだ。
そういえば実家の被害状況も見てなかったので、見て回ることにした。
壁紙は石膏ボードの縁に合わせてほとんど破れた。
階段の壁の歪み。
居間以外の客間・妹の部屋・親父の部屋のテレビは全て倒れ、突っ張り棒をしていない棚は全て倒れ、クローゼットに入れていた服や棚は全て外に飛び出し、まさに足の踏み場もない状況だった。
タンスも倒れて、さらに重みで壁にめり込んでいた。
昼、集会所に行くと、避難されているご老人や近所の方が炊き出しをしていた。
自治会はすごい。誰が何を言うまでもなく、食糧や水、ストーブ用の灯油の確保をしていた。
「こんだけしかないけど」と渡された炊き出しの塩おにぎりを頂いて食べたが、久しぶりの温かいご飯で涙が出た。
17時には真っ暗になるので石油ストーブをつけて、天板で年越し用のそばの具材をぶち込んで作ってみんなで回して食べた。
21時に車で就寝。
トヨタのISISの座席がフラットになって、男2人が足を伸ばせるようになった。控えめに言って神。
フィットもかなりフラットになったので、久しぶりに熟睡した。
【3日目】(1/3)
行政からは菓子パンの支給のみ
救世主:山の湧き水
起きたら5時だった。
集会所の炊き出しがあるようなので、8時ぐらいに行っておにぎりと菓子パンとお茶を頂く。
行政からの支援は菓子パンのみ。他は自治会の方がいろいろ手配してくださった模様。
もはや行政より信用できる自治会である。
集会所に居た方々で情報交換をしたところ、1/2に僅かながらガソリンを販売したスタンドがあったらしい。すぐに売り切れてなくなってしまったとのこと。
能登空港のガソスタはタンクに水が入って販売不能。
他で燃料を売ってないか、最寄りのガソリンスタンドに向かってみることにした。
元々1/3から営業開始するガソリンスタンドが多いからだ。
珠洲道路に出ると、名古屋守山の自衛隊とauの移動基地局車に遭遇した。
移動基地局車はなにわナンバー。遠い所までマジでありがとう
道中の珠洲道路も悲惨な状態で、いつ崩れてもおかしくないエリアがいくつもあった。
能登町天坂のあたりに来ると道路損壊が少なくなった。
父「ここ、俺が設計して施工したところや」
父は土木作業員だ。ひいき目もあるが冗談抜きでいい仕事してるなと思った。
マジでいい仕事している(息子談)
ガソリンスタンドは父の知り合いだったが、完売して営業できないとのこと。
近くのJA-SSも30分ほど待ったが営業開始する気配がなく、待ってても仕方ないので、帰ることにした。
残りの部屋の掃除をしたが、テレビは1台は明らかにダメになった他は、あとはパッと見は大丈夫そうだったのが意外。
電気が戻ったら確認したい。
細かいものは散乱しているが、自分がいる間に力が要りそうな大きなものは大体片付けた。
朝ごはん兼昼ごはんのような炊き出しの塩おにぎりを2つ食べて、山の水を確保しにいった。
実家は水道とは別に近くの山から山の所有者の家(今は空き家)とうちに1本ずつ引いているものだ。
おばあちゃんの時代あたりまでは、普通にこれを飲み水として使っていた。
いつもは洗車をしたり車庫の前の坂の雪を溶かすために使っていた。これが使えれば飲めずとも、物を洗ったり、歯磨きや顔を洗ったりするための生活水をある程度確保出来ると考えた。
山の所有者さんの家の裏を通り、父と2人で山に登る。
やがて貯水用のタンクが見え、タンクへ給水する用のタンクを見るとここまで水が来ていなかった。
源水を取水しているところの口が、地震やらなんやらで落ち葉で詰まっていたようだ。取り除いたら、タンクに水が注がれ始めた。
あとはタンクに水がある程度貯まってくれば、位置エネルギー的なやつで家まで来るはずだ。
タンクに水が貯まるまでの1〜2日はなんとか耐えたい。
雪道を歩いて疲れたので自宅に戻って休んでいると、集会所にいた方が2人で車でやってきた。助手席の人の手には家族分のカレー。涙が出るぐらいうまかった。
トイレの下水は浄化槽式だったので、トイレの水を流しても停電で浄化槽か処理してくれないため、父が仮設トイレを工作した。
以前自営業をしていたので、ダンボールの箱はそれなりにあったので、箱とゴミ袋で仮設のトイレ(大用)を作った。
冷凍庫には正月に食べようとしていた、しゃぶしゃぶ用のお肉とカニがあった。
幸い、外気も低く、妹が機転を利かせて雪を保冷剤代わりに入れていたため、特に痛みもなさそうだった。ダメになる寸前のお肉をカセットコンロで焼いて食べて、ヤケクソ焼肉をした。
カニはストーブで山の水を沸かせて茹でて食べた。
余震は相変わらずの頻度でやってくるが、車で寝泊まりするのも燃料を使うため、居間に座布団とありったけの毛布をひいて、川の字で寝ることにした。
いざとなったらすぐ飛び出せるように、寝室の扉以外は玄関以外開けっぱなしで、久々に我が家での就寝。
時々地響きと共に家が揺れて起きたりしたが、寝不足だったせいかいつの間にか気絶するように眠っていた。
【4日目】(1/4)
集会所で情報をかなり得られた
auが暫定で復活
偶然見られたテレビ
今日も朝から集会所で情報収集。
消防団の車が丁度止まっていて、いろいろ情報を得ることが出来た。
能登町当目の田代地区へのが道路が寸断されて孤立していること
赤ちゃんがいる家庭があり、自衛隊となんとか徒歩で行けるような道を作っていること
能登町柳田に向かう道路が、土砂崩れで電柱が折れていること(道路自体は暫定的に通れるようになった)
その道はまだ危険な状態で、余震などで落ちてきそうな岩がまだ残っていること
ガソリンスタンドの営業状況:能登は全滅だった
羽咋以南の情報:金沢のガソリンスタンドは能登の人が買いに来ると焦って給油してるみたいで、品薄気味
生活水の情報:近所の家で山の湧き水を得られること
auが発電機で基地局が暫定で復活。
昨日からハイエースのKDDIの車がひっきりなしに走っていて、最寄りの集会所と我が家がエリア内になった模様。
集会所の管理をしている館長さんが、来ていたauの方にお話しをして、「ここに大勢避難しているから、ここを直して貰えるとありがたい」と伝えてくださったらしい。
それならばと「簡易的な発電機なので燃料が無くなったら停波するが明日また補給しにくる」と言い残して去っていった。
めちゃくちゃ頼もしい。
しかし家族含めてドコモとソフトバンク回線しかなく、被災してから関連の車両を見かけることははなった。改めてKDDIのフットワークの軽さ、災害時の対応の迅速さに驚いた。
(やっぱりpovoかUQあたり契約しとくか…)
いろんな備蓄や、「今これがあったらな」が増えてきたので、被害の少なかったエリアに買い出しに行くことを考え始めた。
ふと固定電話のプッシュホンが停電後でも使えていたのを思い出し、金沢の親戚に電話をかけて金沢の状況を聞くことにした。
金沢ではガソリンも買い出しも概ね普通に出来るとのことだ。水道も出るとのことで、金沢に行ったら持ち帰られるようにポリタンクに水道水を入れておいてもらうことにした。
ご近所のお宅から山の水が手に入った。(許可済)
飲用は避けた方がいいが、洗い物をしたり、うがいをしたりするための水が手に入った。
無限に水が手に入る安心感の凄さを実感した。
その水を使って4日ぶりに石鹸で顔を洗って、歯を磨いてスッキリした。
昼過ぎに集会所に配給をもらいに行った。
炊き出しが出来るのを待っていると、集会所の前に1台の金沢ナンバーのミニバンが止まった。
若いご夫婦?が出てきて、後部座席には満載のダンボール。
話を聞くと、テレビで地震の情報をみて、金沢で購入して片道6時間以上かけて個人でやってきたとのこと。
世の中には行動力の化身のような方がいる。
トイレットペーパーや飲料などを置いていってくださった。
ウメダさんとおっしゃるらしい。本当にありがとうございます…
待ち時間に偶然、集会所の前が奇跡的にワンセグが映ることが分かった。
(この辺は元々テレビ電波の不感地域で、町が運営しているケーブルテレビでテレビを受信している)
映ったのはテレビ金沢(日テレ系列)とMRO(TBS系列)だけだ。ところがテレビ金沢はキー局の放送をそのまま流していて震災関連の放送を全くしておらず、L字テロップもなく、何も役に立たなかった。MROは一応キー局のワイドショー的なニュースをやっていて、その中での地震関連の中継やL字テロップで避難所の情報を得ることが出来た。
どうやらこの集会所は行政的には避難所となってないらしい。
ここから10km先にある柳田小学校か斉和集会所が案内されていた。一人暮らしのご老人が多い過疎地域で、10km先の避難所が指定されていた。
そんなの無理だと思った。
道路は寸断され、唯一の迂回路も寸断寸前。
停電で町からの情報もない。
そんな中での移動は困難だった。
行政は地震に備えて、こういう時に自然と人が集まる建物を管理して避難所として欲しい。
テレビの内容は正直、いつ映らなくなるか分からない状況でのコメンテーターの話は全く不要でイライラしていたが、放送内で中継があり、ここで輪島と珠洲の惨状を知ることになった。
情報が全くなく、我々の地域を素通りして自衛隊や警察が全然来ないことにずっと苛立っていた(※)が、あの惨状をみると、なんとか家は倒壊してないレベルの我々の地域が後回しになる理由がわかった。
※時折パトカーや県外からの応援の救急車などが、家の前を通っていたが、みんな口を揃えて「輪島にはどこから行ける?」と聞いてくるので、内心この辺に来たんじゃないんかいとなっていた。今思えば道路が全て寸断されて、細い県道でも行けないか探っていたのだと思う
どうやら7日から雪が降るらしい。
道路が損壊していて、どこにひび割れや穴があるか分からない道路状態での除雪は絶対に無理だ。
特に夜の移動は、どこで道路が損壊しているか分からないので、絶対に避けることにした。
家族で話し合って、行動するのであれば、5日にしようとなった。みんなで金沢に行くことも考えたが、おばあちゃんの痴呆が進んでいて、1人で家に残したり逆に連れて行くのは厳しいと判断した。
東京に帰らないといけない自分と、父親の2人で朝一で金沢に向かい、母と妹はおばあちゃんを見るために残ることにした。
5日であれば、万が一金沢で夜になってももう1日余裕がある。
買い出しのリストを話し合ってまとめた。
これを買って車に積み込んで、能登に帰す作戦だ。
行政の支給は少しずつ来ているが、正常化しているところで自分たちで買い出しをして戻ったほうが、確実と判断した。
21時には布団に入って就寝した。
【5日目】(1/5)
1:30に目が覚めて、そこからはなかなか寝付けなかった。この日記も寝付けなかったので書いている。
いよいよ補給作戦の決行日だ。
7:15。
5日も風呂に入れてないので、なんとか服を着替えて、顔を洗って、歯を磨いた。
母、妹、おばあちゃんが実家に残った。
自分はこのまま東京に帰ることになるため、「体にだけは気をつけて。支援物資満載にして帰すから」と言い残して、実家を出た。
頑張ってくれ
倒れるんじゃないぞ実家
親父の運転で珠洲道路に出た。
朝も早かったからか、金沢方面に向かう車は多くなかった。
能登空港までの道は、被災した日に一度通ったので段差や土砂崩れの場所をナビしながら走った。
洲衛から穴水此の木までは、珠洲道路は金沢方面への一方通行だった。(珠洲方面へは県道1号経由で一方通行)
途中、本当にこれ通れるのかと思うぐらい道が崩壊していた。
穴水町内に入ると、支援にきた自衛隊や警察、水道局の給水車などなど、県外からの大量の応援が来ていた。
もう少し頑張れば希望が見えると感じた。
唯一繋がっている国道249号線も道路が損壊し、生活道路を使っての迂回を余儀なくされていた。
対向車は特に多く、支援物資を届ける目的以外での能登へ車を走らせるのは、絶対に避けてほしいと思った。
いつもは1時間かかるところを3時間かけて、七尾市田鶴浜まで出てきた。
ここまでくると、ガソリンスタンドは通常営業しており、日常を取り戻していく感覚になっていった。
中能登町まで来ると、すっかり日常で、セブンイレブンで炒飯おにぎりを買い、頬張った。
コンビニのおにぎりってこんなに美味かったっけか…
親父とそんな感想を言い合い、車を進めた。
かほく市や津幡町まで来ると本当にいつもと変わらない街並みだった。
大型の店舗で当面の支給物資を買い揃え(6万円分いろいろ買った)、親戚のおじさんのところで水道水を頂いた。
いざとなったらここまで来れば日常が手に入ると、希望が見えた。
買い出しを終えて東京に帰るために、金沢で取ったホテルにチェックイン。
フロントで「図々しいお願いなんですが、被災地から来たお父さんを、自室のシャワーにだけ入れさせて貰えないでしょうか」とお願いしたところ、「こんな時ですから」と快諾してくださった。
本当にありがとうございます。
親父から先にシャワーを浴びてもらい、自分も5日ぶりのシャワーを浴びた。
マジでスッキリした。
こんな当たり前のことが出来なくなっている実家を思い出して涙を流した。
親父にau回線のpovoを契約させ、当面の連絡手段を確保して被災地へ帰した。
【6日目】(1/6)
※6日目は後日加筆した部分です
金沢のホテルをチェックアウトした。
実家が大変な状態なのに、東京に帰すためにここまで送ってくれた親父のためにも東京に帰ろうと思った。
金沢駅の券売機で新幹線の切符を購入する。
「無理やりにでもなんか食べるんだぞ」と言われたのを思い出して、人がまばらな金沢駅の芝寿しで「北陸浪漫」という駅弁を購入して乗り込んだ。
8:51、かがやき号 定刻通り金沢駅を発車。
能登の方を見ながら、複雑な感情が込み上げ、涙が止まらなかった。
小学校の同級生LINEで現地の情報を伝えながら、被災地からどんどん離れていく。お弁当は正直喉を通らなかったが、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら食べた。しょっぱかった。
約3時間の乗車で、東京駅に到着。
自宅について荷ほどきをした。
少し休んだ後、東京に帰った俺ができることを考えた。
今できるのは現地の情報をみんなに知ってもらい、現地で役に立つ情報を実家にいる家族に伝えることだ。
そう奮い立たせて、NHKをつけ、パソコンの前に座った。
給水の情報
航空写真からの実家周辺の被災状況(土砂崩れ状況)
薬の処方に関する情報
道路の状況(使える道、集中除雪の通行止め情報)
携帯電波の復活状況
カセットコンロを使った米の炊き方
風呂の情報
今後の天気
ちょっとでも家族が希望を持てるように情報を整理して伝えた。
実家はまだ電気も水道も届いていない。携帯もau以外は届いていない。
まだまだ、家族の避難生活は続く。
あとがき
拙い文章でしたが、ここまでお読みいただきありがとうございました。
これが自分が被災して見てきた被災地のリアルです。
物資が徐々に入ってきていますが、唯一繋がっている道が細く、いつ切れてもおかしくない状況です。
どうか無理のない範疇で能登半島を助けてください。
伝えたいこと
家屋の倒壊や火災でぐちゃぐちゃになった輪島や珠洲も大変だが、電気水道携帯などライフラインが全て無くなっている穴水町以北はかなり厳しい状況
能登半島の形状的に、この被災エリアに入れる道が1本しかないのが壊滅的
物資が全然足りない。物資が役場に届いても避難所へ運ぶ人が不足している
改善して欲しいこと
能登半島の大動脈である、のと里山海道、珠洲道路、能越道、輪島に向かう県道1号、迂回路の国道249号にもっとお金をかけて災害に強い道路にしてほしい。以前の能登半島地震でも盛り土区間で道路が大きく損壊して通れなくなっていたが、大動脈というにはあまりにも貧弱すぎる。
特に249号とのと里山海道の両方が同時に切れたら終わりです
(どっかの偉い政治家さん、マジで頼みます)停電時の行政からの連絡手段を確保して欲しい。連絡網でも広報車でもなんでもいい。とにかく情報が欲しかった。
能登町は耐震の避難所の設置間隔を見直してほしい。せめて小学校の統合前の範囲ぐらいはカバーして欲しい。
イカキングなんて作っとる場合ちゃうぞ
(地元への文句なので許して)
↓ 地震後に家族と話し合った、今回の被災の振り返りと対策