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明治生まれの名工たち②


前回に引き続き、思い出の写真の表情と共に、
他の人たちの記憶の中の等身大の名工たちを紹介していきたいと思います。

今回は、大沼健三郎さんと松田初見さんです。

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※写真:全国こけし祭り第四十回開催記念誌より引用
【こけし祭りにて。左が松田初見さん、右が大沼健三郎さん。】

櫻井家の先代の一人でもある、大沼健三郎さんは、
15歳の頃から父の甚三郎、兄の甚五郎について木地を習得しました。
以降、お盆などの大物挽に従事したり、木地業から離れることもありましたが、
昭和12年より復活し、戦後に上鳴子で独立しました。

あの頃の人は誰でもそうでしょうが、頑固親父でしたね。
50歳頃からは持病のぜんそくに悩まされ、毎年8月ぐらいまでは家にいて仕事をしましたが、秋、冬は病院で過ごしていました。でも85、6歳ぐらいまでずっと筆を離しませんでした。病院でも色紙に描いていました。病院から「重病だ」と連絡が来て駆けつけることもありましたが、私の挽いた木地を持っていって絵付けをすると体調がよくなるんです。根っからの職人だったんでしょうね。
 (長男・大沼健伍さんのお話より)

松田初見さんは、大正2年に高野幸八の弟子となり、
兄弟子の鈴木庸吉に実際の指導を受け、大正9年に独立しました。
のちに松田こけし工房を設立し、長男の三夫さん、孫の忠雄さんと
共にこけし作りを続けました。

祖父は酒の煙草もやらない、本当に仕事が趣味のような人でした。祖父は木地玩具を好きで作り続けましたから、あれこれ工夫したり、ロクロに向かって試作をしたり、そういうのが本当に好きだったんでしょうね、とにかく手先が器用な人でした。材料も使えるものはていねいに取っておいて利用していましたよ。
85、6歳までは現役で、眼もそう悪くありませんでしたから、木地も描彩も全部自分でやりました。私が木地玩具に興味を持つようになったのも、小さい頃から祖父が作るのを見ていたせいですね。 (孫・松田忠雄さんのお話より)

大沼健三郎さんと松田初見さんの生前エピソードからは、
仕事とか関係なく、本当にこけしや木地玩具作りが好きだった様子が
伝わってきます。だからこそ、こけしに奥深さを感じられるような、
良いこけしが作れたのかもしれません。

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※写真:全国こけし祭り第四十回開催記念誌より引用
【奉納式にて。明治生まれの工人たちは、いつも羽織袴で式にのぞみました。】

普段は本の中や、作品として残したこけしでしか知ることのできなかった
明治生まれの名工たちの人物像が、人間味溢れるエピソードにより、
少し身近に感じられたような気がします。

こけし祭りの写真の中に映る、
羽織袴姿の厳粛な雰囲気が漂う明治生まれの工人たちに、
より一層憧れと魅力が増しました。


( 文: 児玉紗也加 )

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