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明治生まれの名工たち①


第四十回開催記念誌を読んでいると、
当時のお祭りの様子と共に、明治生まれの工人さんたちが映る写真が
とても印象に残ります。

明治生まれの工人たちについて、
この本ではこのような説明が添えられていました。

明治生まれの工人たちは、こけしが子供の玩具から大人の鑑賞品となる過渡期を生きた人たちである。その前の世代と事なり、こけしへの作品意識を高めざるを得なく、その努力の結果としてたくさんの傑作を世に送り出した。そして明治人ならではの魅力で、たくさんの愛好家や研究家を魅了した。
 (全国こけし祭り第四十回開催記念誌より)

今回は、思い出の写真の表情と共に、
他の人たちの記憶の中の等身大の名工たちを
何回かに渡り、紹介していきたいと思います。

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※写真:全国こけし祭り第四十回開催記念誌より引用
【奉納式で、こけしを携えて待つ工人さんたち。左から伊藤松三郎さん、大沼健三郎さん、松田初見さん。その後ろには、鳴子中学校のこけしクラブの生徒たち。昭和47年(第18回)。】

伊藤松三郎さんは、11歳頃から修行を始め、15歳頃から数年間各地を転々とし、
北海道でのニシン漁など波乱に満ちた前半生を送ります。
昭和20年以降は鳴子沼井の開墾を進めながら、こけしを作りました。

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※写真:全国こけし祭り第四十回開催記念誌より引用
【展示会場で、深沢コレクションをじっと見入る松三郎さん。昭和46年。】

亡くなってもう20年になるというのに、タクシーを呼べば「あぁ、松三郎さんのとこね」と言われる。お客さんに電話を貸せば「いま松三郎さんのとこにいるんだけど」とかけている。まだ、松三郎は生きているようなものです。
こんな風に皆さんにいまだに思われているのも、色んな人のお世話をしたからかもしれません。開墾しながらの生活は本当に貧しくて家族が食べる米にも困るというのに、居候を連れてきてしまう、そんな人でした。
 (長男・伊藤松一さんのお話より)
あんないい人はいないと思いますよ。本当に誰にでもよかった。小学校の時、私に最初にロクロを据えつけてくれたのは松三郎さんでした。それを使って練習したんです。「昭二、誰とでもつきあえ、乞食とでも付き合え、全部自分に返ってくるから」と言われたのも忘れません。岩蔵さんのところで修行するようになったのも、松三郎さんの勧めでした。 (櫻井昭二さんのお話より)

他のどの方のお話からも、
松三郎さんのおおらかさや、人柄の良さが伝わってきますし、
人との繋がりを大切にしていた、愛情深い人だったのではないでしょうか。

祭りの中心となった若い工人さんたちと、
この明治生まれの名工たちが共存していた時期の「こけし祭り」は、
私自身もその場に居合わせたかったと思うほど、一層魅力的に映りました。


( 文: 児玉紗也加 )

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