加害性の自覚と配慮
◆定義
本記事では、「加害性」という言葉を「他者を傷つけたり他者の利益を失わせたりする性質」という意味で使用する。
◆あらゆる行為は加害性を持ち得る
自分は、「あらゆる行為は加害性を持ち得る」と考えている。
理由としては、「人が何に傷つくか分からないから」(傷つき関連)と「リソースが有限だから」(利益喪失関連)というのが大きい。
行為が持つ加害性について、以下に例示してみる。
結婚式には加害性がある。
本当は新郎や新婦と結婚したかった人、手が届かないから他者の結婚自体が許せない人、実は新郎や新婦が嫌いで幸せになるのが許せない人……。結婚式で傷つく人はたくさんいる。誘われることや誘われないこと自体で傷つくこともある。創作物の発表には加害性がある。
何をどう表現しようが、それにより傷つく人がいる可能性を完全に排除することはできない。
過激な表現で傷つく人がいるし、一見不快な要素ゼロでも、自身が置かれている状況と比較して傷つく人もいる。言論には加害性がある。
自分の思想を世に出すということは、誰かを傷つける可能性を当然に伴う。社会や他者に関して物申す系は特にそう。
当然この記事についても加害性がある。大学受験に合格することには加害性がある。
自分が受かったことで落ちた人がいる。落ちた人は傷つくし利益も失う。生活保護を受給することには加害性がある。
他に回す財源、例えば子育て支援に回す財源を奪っている。子育て世帯は得られたはずの利益を失う。
なお、他に財源を回すということにも、生活保護に回す財源を奪うということで加害性がある。犯罪者を告発することには加害性がある。
逮捕などによりその犯罪者の利益(不当利得感がある)は失われる。
まあ当然その前に犯罪被害者は傷つき利益を失っているわけだが。食事には加害性がある。
食材の命を奪う行為であるのと同時に、他者から資源を奪うことでもある。他者は自分がいなければ食べることができたはずの食べ物を失う。呼吸には加害性がある。
CO2を排出し、環境に負荷を与え、他の生命に危害が加わる。
当然のことなのに、正当な権利なのに、悪いことじゃないはずなのに、自分が何かをすることで傷つく人や利益を失う人がいるかもしれない。加害性「も」持ってしまう……人の行為というのはそういうものである。
生きている限り誰も加害性から逃れられない。
そしてもちろん、死ぬことにも加害性がある。
多くの場合誰かにショックを与えてしまうし、そうでなくとも誰かしらには迷惑がかかり有限なリソースを奪ってしまう。
死後も、ショックが継続していたり法事などで有限なリソースを奪ったりする。
死後誰にも顧みられなくなったときに初めて人は加害性から逃れられるのではないか。
◆自覚と配慮
ここで注意が必要なのは、「あらゆる行為は加害性を持ち得る」という主張と「それらに全て配慮すべき」という主張は別物であるということだ。
加害性関連の議論において、「配慮しろ」という話ではないのに「加害性がある」というだけで「配慮を求められた」と思い込んでいる人がいるように見える。
自分は「あらゆる行為の加害性に全て配慮すべき」などという主張はしない。
人が何に傷つくか分からない以上、全ての傷つきに配慮するのは不可能である。もっと言うと、その「配慮」によって傷つく人だっている。
また、有限のリソースを何かに使うということは別の何かには使わないということであり、かといってリソースを他に回すという「配慮」は元の行為と同じように加害性を持ってしまう。
このことは上で挙げた例でも確認できる。
いちいち全てに配慮するのは不可能。
しかし行為が加害性を持つことは「事実」であり、自覚さえしなければ加害性を持たずに済むわけではない。
それならせめてそのことには自覚的でありたいと、自分は「加害性を自覚しつつ配慮しない」ことにした。
「分かりやすい加害行為でなくても行為の裏側には加害性があると認識しているが、その『裏側の加害性』には配慮しない」というスタンスだ。
「傷つけないよう」配慮するのではなく、「傷つけている(かもしれない)」ことを自覚するとでも言うべきか。
間接的な加害に配慮しないということではないし、「表側の加害性」については自分もそれなりに配慮する。
ただ、「裏側の加害性」によって傷つく人は勝手に傷ついてればいいし、「裏側の加害性」によってどうでもいい人の利益が失われようが知ったことではない、と開き直っている。
自覚しているだけマシなのかもしれないし、自覚している分より「ひどい人」なのかもしれない。
◆寛容な社会へ
配慮するわけでもないくせに、わざわざ「裏側の加害性」を自覚するメリットは何か。
それは、「他者の加害性に寛容になれる(かもしれない)」ということである。
加害性を自覚しつつ配慮しない……「ひどい人」である自分自身を認識することで、誰かの行為の「裏側の加害性」で自分が傷ついた際などに、直ちに配慮を求めるのではなく「まあ自分も相手を(誰かを)傷つけてるかもしれないし、配慮してないしお互い様だな……」と立ち止まって考えることができるようになるのではないか。
少なくとも、自分に加害性はなく純然たる被害者であると認識している状態よりは寛容性が高まるはずだ(どんなことをされても絶対に黙ってろということではない)。
自分は「誰も傷つかない社会」ではなく(というか実現不可能)、そんな「互いにある程度傷つけ合う=加害性に配慮しないことを自覚し許容し合う(あるいはスルーし合う)寛容な社会」がいいと思っている。
もし寛容な社会のために「加害性への配慮」が必要なのだとすれば、それはきっと誰かの行動を咎め矯正する方向ではなく許容・スルーする方向で発揮される配慮のことだろう。
すなわち、他者の加害性に一方的な被害者意識を募らせないよう配慮(自戒)する、加えて自分の加害性に一方的な加害者意識を募らせないよう配慮(自戒)する、ということ。
そういう意味では、自分のスタンスも「加害性を自覚しつつ配慮しない」と言いつつ結局ある種の「配慮」をしていると言えるかもしれない。