脱兎、火を駆け、月に還る

【あらすじ】
社会に蔓延る“悪魔”を駆逐する特殊組織『天之尾』の一員であるカンナは、指令を受けてとある高校に非常勤講師として潜入する。
その高校では表立った怪異が見られたわけではなく、むしろ優秀な卒業生を多く輩出する名門として名が知られていた。
カンナが調査を進めていると、生徒たちの間でまことしやかに囁かれる『放課後の天使様』に関する噂が存在することが明らかになる。「望む者の願いを叶えてくれる」という『放課後の天使様』の正体を探るため、カンナが生徒たちに倣って手続きを踏むと、そこには制服を身に纏った少女が姿を現した。


宗教や地域は広かれど、その多くにおいて、“悪しき者“の概念は往々にして存在する。甘言や強大な力を以て人々を惑わせ、弄び、破滅へと追い落とす。
それは決して、過去の遺物ではない。時代が移り変わり、文明の発達により、際限のない人間の欲望はさらに多様化し、悪しき者たちはより多くの隠れ蓑を手にした。
そのような敵と、人知れず闘う組織がある。遠い昔から、歴史の陰で暗躍してきた対魔組織。限られた人間のみが知るその名は『天之尾』。手を変え品を変え、進化し続ける“悪しき者”——”悪魔”を駆逐することが、『天之尾』に課された使命である。

「今のところ、異常は見られません。調査を続けます」
校舎の陰で通信端末を起動し、カンナは手短に報告を済ませる。薬草を刻んで巻き込んだ紙筒に火を点け、深く肺に取り込んで燻らせる。煙草に模した薬管に充填された防衛薬は、日に数回は体内に取り込む必要があった。
「あ!先生タバコ吸ってる!」
二人組の女子生徒が嬉しそうに糾弾する。カンナは微笑みながら口元に指を立て、追い払うような素振りをしたが、生徒たちは構わずに近寄ってきた。
「先生も吸うんだ。ストレス?」
「そりゃ大人にはいろいろあるからね」
「え、もしかして悩んでるの?カンナ先生ってサバサバしてて強そうな感じなのに」
「そんなこともないよ。悩みなんて誰にでもあるでしょう?」
「悩んでるならさ、『放課後の天使様』にお願いしたら?」
聞き慣れない名詞に、詳しい説明を求めると、噂話のひとつのようだ。『放課後の天使様』に願いを叶えてもらった生徒が少なからずいるらしい。願い自体は、恋が実るとか、志望校に合格するとか、極めてありふれた、比較的小さいものがほとんどのようだが、どうにも引っかかりを感じた。個々人で完結する“まじない”ではなく、あたかも願いを聞き入れ、力を行使する存在がいるかのような内容だったからだ。
話の中で名前の出た何名かは未だに在籍しており、校内に潜入する中で生徒たちの顔と名前を記憶しているカンナにとって、特定は容易い。カンナは怪しまれない程度に、様子を探ることにした。

『放課後の天使様』に接触したとされる生徒たちに、目立った異変は見受けられず、人ならざる者の痕跡や、禍々しい気配もなかった。最近になって成績が伸びた、作品展で入賞した、などの成果は一部見られたが、超常的な力が働いているかは些か疑問だった。
しかし、ひとつ気にかかる点があった。皆揃って、右手の中指の先に絆創膏を貼っていたのだ。『放課後の天使様』に接触したタイミングはまちまちであったはずなのに、全員である。
噂の内容を頭の中で整理しながら、中庭の隅で薬管を燻らせていると、廊下を通り過ぎる人影が見えた。もう夜にも近い時間帯で、部活動が行われている教室はない。忘れ物でも取りに来たかと思ったが、生徒の右手の中指に絆創膏を見つけ、妙な胸騒ぎがして、後をついていく。
背中を丸めて歩いていた生徒は、家庭科教室の前で足を止めた。何をするつもりかわからないが、教室は既に施錠されている。職員室に返却されていない鍵はなかったことを、この目で確認している。
しかし、開くはずのない引き戸は、何に妨げられることもなく開いた。まるで、ひとりでに動いて、招き入れるかのようだった。
異様な状況に、カンナは開いたままの出入り口へ向かって駆け出す。閉まろうとする引き戸に指をかけ、力づくでこじ開けると、暗闇の中で立っていた生徒が振り返った。その手には包丁が握られており、真っ暗な教室内に緊張が走る。
「待って、そのまま……動かないで」
カンナは生徒を刺激しないように気を張りながら、ゆっくりと距離を詰める。
「来ないで」
生徒が呟くと、急に周囲の空気が重力を帯び、カンナの動きを封じた。文字通りの重圧に逆らいながら、カンナは呼吸を整える。
祓と加護の祝詞を唱えると、重圧が消え、カンナは生徒に飛び掛かった。常人であれば避けるどころか、視認することさえできない速さで、包丁を奪おうとした。
しかし、その手に凶器を掴むことはできなかった。生徒はゆらりとカンナを躱して、口元を歪めるようにニタリと笑う。その瞳から正気は失われ、もはや言葉が届かないことは明らかだった。
「邪魔なんてできない、させない。願いを叶えるためには、天使様に“支払わないと“」
呟いて、躊躇なく胸元に包丁を突き立てる。血の噴き出す代わりに、どろりと黒い澱みが溢れ出したかと思うと、それは生徒の全身を吞み込んで、そのまま地に吸い込まれるようにして消えた。
カラン、と音を立てて包丁が床に落ちたそのほかに、何も残ってはいなかった。一時的に充満した邪気も、跡形もなく消え去った。
カンナは深く息を吐いて、包丁を拾い上げる。痕跡こそ残ってはいなかったが、目にした事象が何よりの証明だ。
『放課後の天使様』こそが、この学校に巣食う”悪魔”なのだ。


カンナが目の当たりにした事件の数日後、本部から連絡が入った。周辺の警戒を行っていたところ、強い邪気が感知され、上空を通る飛行機に干渉したらしい。対処が間に合い事なきを得たものの、少しでも遅れたら大惨事に発展していただろうということだった。
飛行機の落下予測地点には大病院があり、カンナと相見えた生徒の父親が院長を、母親が理事を務めていた。周辺の情報を集めてみると、家庭環境は芳しくなく、両親からの過剰な期待によって精神を病み、強い憎しみを抱いていた可能性が高いということだった。
願いを特定することは今や叶わないが、無関係とは思えない。深く調べると、この学校が輩出した卒業生の中には、成功を収めたのちに不可解な死や突然の不幸に見舞われた者も少なくなかった。
大それた願いには相応の対価を。それを差し出せば、求めに応じる存在がいる。たとえ、その願いが他者を害するものだったとしても、その力を望まれるまま行使する存在——“悪魔”の存在する証左といえるだろう。この見解には本部も合意し、『放課後の天使様』への接触と討伐が正式に命じられた。

白衣の内側に武器を隠し、噂通りに指定の時間・場所に赴く。酉の刻、逢魔時。暗さを帯びた西日が差しこんで、影を伸ばす。
どこから現れるか警戒していると、自分の影と向き合う形で、もうひとつ影ができているのに気づく。はっと顔を上げると、目の前には、制服を着た少女が立っていた。
烏の羽を思わせる艶やかな黒髪が風に靡く。その容姿は至って普通の、女子生徒のようだった。そばかすに彩られた白い肌は若々しく、幼ささえ感じられた。
彼女は何も言わずにカンナを見つめると、にっこりと口元だけで笑った。
「先生は初めてだなあ。噂を聞いて来てくれたの?」
人好きしそうな、やや溌溂としたトーンで言う。不気味さも不自然さもなく、むしろ耳慣れたようなその声に、警戒心を解くまいとカンナは気を引き締める。
見た目は、この学校の生徒だ。しかし、その姿は、校内に存在しないはずだった。カンナは不登校の生徒を含めて全員の情報を頭に叩き込んでいたが、彼女の顔には見覚えがなかった。
「あなたが『放課後の天使様』?」
「そうかも」
「かも?」
「そういうことになってるの。だから、ここではそうだね。うん、紛らわしいこと言ってごめんね」
おどけたように答えて、机に腰掛けると、「あっ、先生の前だった」と舌を出した。カンナは彼女から意識を逸らさず、それでいて警戒されることのないように振る舞いながら、隈なく観察を続ける。
邪気を感知できない。支給されたセンサーも反応しない。何の前触れもなく姿を現したことからも、人間ではないことは明らかだが、悪魔であるとも現時点では確証が持てない。
「願いを叶えてくれるって、本当に?」
「うん、もちろん先生でも大歓迎だよ。対価は必要になっちゃうけど」
「……対価って?」
彼女は一瞬表情を消して、それからまた穏やかに笑った。
「ふぅん……そう、そっか……」
「何か?」
「ううん。気になるよね、対価。まあ、お願い事次第なんだけど……」
机から降りて、勿体ぶるようにゆっくりと近寄ってくる。ぐっと身を乗り出したかと思うと、耳元に口を寄せて囁く。
「未来、とかかな?」
不意に鋭い邪気を感じ取り、カンナは飛び退いた。同時に銃を構え、狙いを定めて引き金を引く。二発、三発。放たれた弾丸はまっすぐに彼女の方へ向かったが、虚空に消えた。何かに呑まれたかのように、消滅したのだ。
再び引き金を引くが、結果は同じだった。彼女に弾丸が届く前に、何かに吸い込まれるように空気中で消える。困惑するカンナを前に、彼女は振り向いて、背負ったバッグを見遣った。
「おいしい?」
「マ゛ズイ゛」
彼女の背後から、雑音が混ざったような声が聞こえる。それは彼女とは違い、明らかに悪魔のものだった。
「クソマズイ、ガ、腹ペコヨリハ、マシ、ダナ」
彼女の背中からバッグがひとりでに離れる。蝙蝠のような翼をはためかせ、ファスナーが開くと、構えた銃が不自然に震えた。目に見えない力で奪われそうになるのをしっかりと握りしめ、足を踏ん張ると、弾倉がくるくると回り、残った弾丸が吸い込まれていく。
「ウム、マズイ」
不満げに言い残して、ファスナーが閉まる。再び彼女の背に戻っていくバッグを信じ難い気持ちで眺めながらも、カンナは銃を収めて、短刀を手に構えた。床を蹴って距離を詰めるカンナに目を向けていた彼女は不意に姿を消し、刃が空を斬る。
「キレイな髪。金色だ」
背後から聞こえた声に振り返ると、彼女はカンナの金髪を一房手にもって、うっとりと微笑んでいた。
「くっ……!」
瞬時に体勢を整えて、カンナは加護の祝詞を唱える。より速さを増し、斬りつけたはずだったが、手応えはなかった。
「こっちだよ」
相手を見失ったカンナの目の前に、爛々と目を輝かせた彼女の顔が見えた瞬間、カンナの身体は弾き飛ばされていた。ざらついた壁面に脚を擦って、破れたストッキングから血が滲む。
格が違う、と、悟った。
これだけ強大な力を持つにも関わらず、今の今までその存在を隠しきる余力に、仮初の姿でありながら、加護での強化をものともしない身体能力。
さらには、祓に特化した弾丸をものともせずに喰らうなど、これまでの相手とは明らかに能力の高さが違う。相手がその気になれば、きっと自分など、ひとたまりもない。
自らの身が八つ裂きにされるイメージが脳裏を過ぎり、血の気が引く。ここは一旦、退くしかない。せめて、一瞬でも隙を作らなければ。
縋るような思いで銃と予備の弾丸を手に取る。本来、抱いてはならない恐怖と緊張に指先が震える。
「ねえ、先生?ちょっと落ち着いておしゃべりしようよ」
彼女は愉しげに笑いながら、教卓に頬杖をついた。赤みを帯びた虹彩は、地獄で揺らめく業火を思わせる。
「どうせあたしをどうこうすることなんてできないし、ね?事情聴取なら付き合ってあげる」
無邪気とさえ言い表せるようなその微笑に、カンナは動揺を鎮めようと苦心しながらも、提案を呑むことにした。彼女の言う通り、この場を無理やり打開しようとしても、死期が早まるだけだろう。
「お前、悪魔だな?」
「あは、わかりきってるでしょ、ウケるね。そうだよ、悪魔だし、『放課後の天使様』っていうのもあたしのこと。先生は?」
「私が何者か、お前にはもうわかっているだろう」
「うーん、まあ、わかってるっちゃそうなんだけどさ。礼儀ってやつ?」
やりとりを楽しむような態度に調子が狂う。敵意も邪気も、余韻こそあれ、今は感じられない。
「なぜこんな小さな狩場を選ぶ?子どもの願いなど、お前ほどの悪魔であれば取るに足らないだろう。それに、なぜこんな僻地で、今まで身を隠していられた?」
時間稼ぎとはいえ、純粋な疑問ではあった。その力が強大であるほど、悪魔として必要とするエネルギー量も多くなるのが通説だ。先日の一件のような、一気にある程度のエネルギーを得られる、大それた願いばかりではないだろう。少なくとも、今までの例を鑑みれば。
「うーん……まあ、単純にお気に入りなんだよね、ここが。いつも誰かが願いを抱えてくるし、もはやお得意さんっていうか。それに、変に目立って追い回されるより、のんびり仕事できる方が性に合ってるんだよねぇ。意外と悪くないよ?回収スパン短いからそこそこ効率もいいし、そんな難しいことも言われないし」
呆気に取られていると、彼女はカンナの目をじっと見つめながら身を乗り出す。
「ねぇ先生、あたしのやってること、そんなに悪いこと?」
カンナが反射的に睨みつけると、彼女は一層可笑しそうに笑みを深くした。
「こっちもさ、真っ当なビジネスだと思うんだけど。願いを叶えて、お互いの合意のうえで、対価をもらう。まあ、こないだは邪魔されちゃったけど。先払いだったからしょうがないとはいえ、悪いことしちゃったかも」
「何を馬鹿な……!」
「……そうかなぁ。“神様”ってやつより、ずっと平等だと思わない?何も悪いことしてないのに不幸になったり、どんなに努力しても報われなかったり、普通に生きてても救われないことってたくさんあるよね。あたしはそういう子を何人も見てきた」
ふと、彼女の表情に影が差す。戯言に過ぎないと頭ではわかっていながらも、カンナは即座に否定できなかった。潜入調査として身を置いている学校でも、多く生徒たちは皆、大なり小なり悩みを抱え、日々葛藤している。
「運とかなんとかさ、システムとして破綻してるよ。あたしは、対価と覚悟があれば力を貸す。でも、あたしみたいなのに頼らないで頑張ってる人が、みんな幸せになれるの?どれだけ助けを待っても救われない子を、誰が助けてくれるの?」
わずかに伏せていた視線を上げ、彼女は自嘲気味に笑った。自らの主張が受け入れられるはずがないことは、恐らく彼女自身も理解している。それでも浮ついた正義感に酔いたくなってしまう程度には、幼いのかもしれない。
あるいは、その逆。
老獪ゆえに、心の弄び方、揺さぶり方を知っているか。
「ここのみんなとあたしは持ちつ持たれつ。あたしは助けが不要な誰かをけしかけたりなんかしないけど、救いのロープを切るのはさぞ楽しいんでしょうね。ね、先生?」
「……何が言いたい」
「別に、思ったことを言ってるだけ。あ、そうだ」
彼女の細長い指先がカンナの頭に伸びる。動けずにいると、髪に触れて、そのまま離れていく。
「さっき変に切っちゃったからさ。ごめんね?あんまりキレイだったからつい」
触れられた辺りに手を伸ばすと、自然に切り揃えられた自分の髪が触れた。髪のどこにも、一房切られたあとの不自然さはなかった。
「お前の存在は、赦されるものじゃない」
カンナの言葉に軽く目を見開いた彼女は、小さく溜め息をついた。
「そうだね。それも、そっちの仕事。だけど赦される必要なんてない。だって、あなたが来る来ないに関わらず、あたしはここにいるんだから」
彼女は肘を教卓についたまま、指を鳴らす。すると、カンナの脚の傷が塞がって、教室の戸が開いた。
「そろそろお腹も空いたでしょ?帰っていいよ。あたし、虫とかも実害があるやつ以外は逃がすタイプなんだ」
油断したところを突かれる可能性を考えて、カンナは身構える。掌を返されたら、道連れに、せめて痛手を食らわせなければと考えを巡らせる。
「あー、そっか。心配なら先にあたしが帰るね」
上履きを履きなおして、爪先を鳴らす。警戒を続けるカンナと視線を合わせ、にこりと目を細める。
「願い事があったらまた来てね。先生でも大歓迎だよ」
そう言い残すと、瞬きの間に、彼女は消えていた。散らかった机もすべて元通り、何もなかったかのような教室で、カンナは使えずにいた銃と弾丸を握りしめた。


「なるほどねぇ、一切の武器も、加護も効かない、と。ツイてるな、生きて帰れて何よりだ」
カンナの報告を聞き、皆川は眼鏡を上げて管理端末を眺める。武器の開発や対処方法の検討に加え、戦略にも関わる皆川への報告は、カンナに課された義務のひとつだった。
「それから……妙なことを」
「妙なこと?」
カンナが会話の内容を語ると、皆川は一通り報告データに追記してから鼻で笑った。
「悪魔の分際で神を語るとはな。そんな戯言は君もさっさと忘れることだ」
お疲れさん、と肩を叩き、皆川は仕事に戻る。
自らを惑わす欺瞞だったのか、はたまた彼女の内から出ずる意志だったのか。人を破滅させることを生業とする一般的な悪魔とは、どこか異なる印象を抱いた。堕落や破滅ばかりを主眼としているようには、感じられなかったのだ。
同じような甘言を連ね、人を誘い込む悪魔も、己の行為を正当化する悪魔も、対峙したことはある。表層では似通ったところがあるにしても、彼女がそういった悪魔と同種であるとは、なぜか思えなかった。思考回路を毒されたかと薬管を燻らせても、それは変わらなかった。

「一二番が“兎“と接触した可能性があります」
皆川の報告に、上官が眉を上げる。
「そうか、遂に見つけたか」
「接触地は最近になって潜入捜査を始めた栄聖高校。『放課後の天使様』という風説の元凶のようです。まだ確定事項ではありませんが、特徴や行動、言動には一致する箇所が多く、可能性は決して低くないかと」
「ふむ、灯台下暗しというわけだな。それで?詳細データはどうだ」
「それが……実質的な交戦はほぼなく、不充分な状況です」
「交戦がない?こちらから仕掛ければ防御ぐらいはするだろう」
「現行の我々の武器では太刀打ちできず、触れることさえできなかった模様。恐らく、見逃されたと思われます」
上官は苦々しい顔で溜め息をつく。
「つまり、手に負えないからと尻尾を巻いて逃げてきたと?まったく、“人擬き”の分際で嘆かわしい……対策は進めているんだろうな?」
「はい。ログデータから恐怖や緊張といった感覚が確認できましたので、脳内組織の調整を行います」
「技術班に妙な情けをかけるなと伝えろ。だから私は言ったんだ、感情など“なまくら”になるだけだと」
「承知しました。現在潜入調査中のため、急に取り除くことはできませんが、将来的な課題として伝えます」
上官は皆川を見据え、冷ややかな目を細める。
「“兎”の捕獲は最重要事項だ。しくじるなよ」
皆川は慇懃に頭を下げて、部屋を出る。

“兎”——それは『天之尾』が長年追い続けてきた、異質な悪魔であった。強大かつしたたか、それでいてその力をむやみに振るわないことで、追跡を困難にさせる狡猾さと知性を備えた、厄介な悪魔である。その甘言は人を惑わし、修練を積んだ者たちをも呆気なく取り込んだ。
そこで『天之尾』は、兵を創ることにした。従順で、果敢。そして、心をも創造者が制御できる存在……人の形をとりながら、あくまでも道具に過ぎない“神兵”。
“人擬き”とも揶揄されるそれは、虱潰しに悪魔を殲滅しながら、消耗しては挿げ替えられ、改良を重ねられてきた。
カンナの付番は一二番。つまり、十二体目の神兵である。
「……あの子に、“兎”が狩れるといいが」
皆川は眼鏡を外し、気持ちと呼応して重くなる頭を支えるように眉間を押さえた。

「調整完了。再起動を行います」
アナウンスとともに機械が唸りを上げ、やがて静かになる。目を覚ましたカンナに、皆川は微笑みかけた。
「気分はどうだ?」
カンナはゆっくりと瞬きをして、深く息を吐きだした。
「……特に、異常はありません」
「素っ気ない感想だな」
皆川は小さく笑って、トランクをカンナの前に置く。手を翳すと蓋が開き、中に収められた武器が照明の光を反射させる。
カンナは手を伸ばし、武器を手に取った。一つは銃で、もう一つは、刃のない刀であった。柄だけのそれを握り、軽く振ると、風を切る音とともに白銀の刃が現れる。
「それなら携行しやすいし、折られにくいだろう?」
「ええ、確かに。ありがとうございます」
「それでリベンジしてきてくれよ」
カンナの脳裏に記憶が蘇る。夕暮れ時の教室で対峙した少女。交わした会話の記憶は曖昧だ。対峙するまでの記憶と、敗走したという実感だけがあり、カンナは唇を引き結ぶ。
「はい。次こそは必ず、戦果を挙げましょう」
身支度を始めるカンナを見届け、踵を返した皆川がドアの前で立ち止まる。
「……無理は、しなくていい。戦況を適切に把握して退くのも重要なことだ」
カンナは表情を変えずに頷く。彼女を慮る皆川の複雑な感情が、今のカンナに伝わることはなかった。


「こんばんは、先生。また会えて嬉しいな」
薄暗い教室の中、彼女は今回も、音ひとつなく姿を現した。机に腰掛けて足を揺らしながら、にこやかにカンナを見つめる。
「願い事は決まった?」
カンナは白衣の内側に忍ばせた銃を握る。
「私の目的はひとつだ」
床を蹴り、中空で狙いを定める。引き金を引くと彼女のバッグの口が開き、弾丸を飲み込んだ。
想定内の動きを見送り、武器を持ち替え、彼女の白い首筋に向けて刀を振りぬく。わずかな手応えを感じた刹那、カンナの身体は弾き飛ばされた。
「ふぅん、なるほどね」
彼女は自らの手のひらを眺めて感心したように呟く。手からは黒い血が滴っている。
「ンン゛?ナンダコレハ……ウプ、モウ喰エン」
苦々しく言い残すと、バッグの口が閉まった。沈黙したそれを見て、彼女は困ったように首を傾げる。
「あらあら。じゃあ当たらないようにしないと」
彼女がカンナに目を向けたときには既に、弾丸が放たれていた。一瞬、驚いたように目を見開いたかと思うと、彼女は姿を消し、弾丸は虚空で失速して床に落ちる。カンナはこの隙に体勢を立て直そうとしたが、突如として全身が鉛のような重力を帯び、再び膝をつく。
「レベルアップだ。すごいね」
背後から聞こえた声に、振り返ろうとしても首が動かない。上履きが床に擦れる音とともに、彼女がカンナの前に回って、視線を合わせるようにしゃがみ込む。
「私は、目的じゃなくて願いを訊いてるの。……ああ、でも、そうか。今のままじゃ、願いも何もないよね」
彼女は傷の癒えた手のひらをカンナの額に翳して微笑む。
「あなたが奪われたもの、まずは返してあげる」
次の瞬間、強烈な耳鳴りと激しい頭痛に、カンナは呻いた。脳がこじ開けられるような感覚とともに、覚えのない風景や音声が濁流となって駆け抜けていく。
知らない記憶。……いや、違う。これは、知らないんじゃない。
消されていた、記憶。
「あ、あ……」
唐突に流れ込んだ莫大な情報と、それに紐づいた事実を処理しきれずに、カンナの目から涙が溢れる。その様子を憐れむように見つめながら、彼女は目の前に腰を下ろした。
「あなたは……いや、“神兵”は人擬きなんかじゃない。心と過去を奪われただけの“人”なんだよ」
存在するはずのない、“神兵”として創られる、その前の記憶。
平穏な家族との日々と、突如訪れた悲劇。
目の前で両親を殺され、行われた悍ましい儀式。
“神兵”ではなく、人の子であったはずの自分が、自分を奪われていく過程。
空白とすら認識していなかった記憶のピースが嵌め込まれ、湧き上がる感情に、胸が壊れそうなほど締め付けられる。
「思い出したでしょう?さあ……あなたの、名前を教えて」
「私の、名前……」
名前。番号でも、通称でもない、本当の名前。
両親に与えられ、遺された、最後の祝福。
「望月、神奈」
震える声で発したその名のもとに、散乱した記憶が収束されていく。重力による戒めはとっくに解かれていたが、カンナはその場から動くことができなかった。
「神奈さん。気持ちが落ち着くまで、昔話でもしようか」
彼女の微笑は、悪魔らしからぬ慈愛に満ちていた。


遥かな昔から、権力者たちは呪術の力を強く信じていた。誰もがそれを畏れ、縋った。
呪術を操る者たちは重宝され、権力者たちはこぞって手中に置かんとした。昏く、恐ろしきそれを振るい、願いを叶えるため。そして、自らの身を護るため。そんな時勢の中、呪術者たちは歴史の陰で栄えていった。
やがて、権力者たちは、強力な力を手に入れることに躍起になった。より、力のある者を。より、効果の高い呪術を。そのためには手段を選ばず、どんな負担も厭わなかった。
呪術者たちもまた、より大きな力を求めた。そして、とある考えに行き着いた。
人を超越した存在から力の一端を借り、使役するのではなく、その存在ごと奪い、動力源としてしまえば、従来とは比べ物にならない力が手に入るのではないか。
すぐに有能な呪術者たちが集まって、試行錯誤を始めた。あらゆる禁忌を犯し、多くの犠牲を払いながら、何年もかけて人智に挑み、方法を模索した。
そして遂に、目論見を実現する仕組みを作り上げた。端的にいえば、あらゆる存在を喰らうことで、呪いの力を醸成し、増幅する装置であった。
呪術者たちはすぐさま装置の稼働を始めた。神霊も悪魔も霊魂も問わず喰らいながら、装置は肥大していった。
炉の形をとり、煌々と燃え続ける炎を擁したそれは、悍ましい魔力の塊であった。調伏や退治、捕獲など、手段を問わず集められた存在を呑み込み、炎は大きく、禍々しく育っていった。装置を扱える呪術者はごく一部に限られたが、その炉と炎を用いた呪術は強力で、望みさえすればあらゆるものを滅ぼし、さらには後に残されたその骸すら養分として取り込み、増長していった。
呪術者たちは、その装置を『カグツチ』と呼んだ。そして、それを独占し、自在に操る者たちは『天之尾』と名乗るようになった。

「……まさか」
カンナは呆然と呟く。悪魔を狩って回る”天之尾”は、つまり。
「そのまさかだよ。『カグツチ』は今も存在して、ずっと力を蓄え続けてる。奴らの大いなる目的のためにね」
「大いなる、目的?」
「この世界を、造り替えること。世界を丸ごと壊して、自分たちの思い通りに造り直す。気に食わないものは排除して、都合のいいものだけが存在する世界を再構築する。それによって、『天之尾』は創造主たる神になる」
呪術による、滅亡と再生。カンナにとって、俄かには信じ難いものだった。それが本当だとしたら、『天之尾』は社会を護るためではなく、破壊するための組織だ。
「馬鹿げた理想には、特大のパワーが必要。だから、『カグツチ』と『天之尾』は何年、何世紀にも渡って、生き続けてきた。そして、今も」
彼女は深く息をついて、立ち上がる。近くの机に腰掛けると、カンナを見下ろしてにっこりと笑った。
「段々と効率化も進んできてね。ほら、“神兵”なんかもできたし、悪魔をどんどん捕まえて、喰わせることができるようになったから。で、ある段階で努力の甲斐あって『カグツチ』は必要な力を蓄え終えた。ところが、問題が起きたわけ。まあ、だから今も世界は存続してるんだけど。あ、ここからは昔じゃなくて今の話に繋がってくるね」
おどけたように笑う彼女に対し、カンナは表情を変えず、黙って続きを待つ。それを見た彼女は勿体ぶるように眉を上げて一呼吸置き、再び口を開いた。
「目的の実行に向けて『カグツチ』の中で焚べられていた”火”が、何者かに盗まれた。それで、せっかく溜め込んだ力はごっそり奪われて、『天之尾』の悲願達成は遠のいた。だからその、奴らから言わせれば“天の火を盗んだ兎”ってやつを、今も血眼で探してる。当然だよね。『カグツチ』から盗み出すってことは、内部にいた裏切り者ってことになるし」
“兎”という言葉に、カンナは聞き覚えがあった。凶悪かつ強大な悪魔で、『天之尾』の最重要討伐対象とされている。
“兎”の詳細が共有されることはなく、データも厳重に秘匿されていた。しかし、彼女によれば、“兎”は『天之尾』の計画を知って、それを阻止するために、組織の目を盗んで『カグツチ』の力の一端を盗み出した、ということか。
「……さてと、結構長話しちゃったね。少しは落ち着いた?」
「あんたが、なんでそんなことを知っている?悪魔のあんたが……」
そこまで言いかけて、カンナは口を噤む。
こちらの動きを見切ったような対応力に、正体を知っても動じない態度。
規格外の力に、異質な言葉。
一般的な悪魔とはまったく異なった思考や行動。
すべてが、繋がる。
「気づいた?」
彼女はバッグを背中から下ろして抱え、小さく祝詞を唱える。すると、バッグは光を帯び、彼女の手の上で燃え盛る炎に姿を変えた。
「あたしが“兎”。そんでもって、創造主を裏切った失敗作の“神兵”零番。『カグツチ』を消滅させ、世界の崩壊を止めることが、私の目的」
“兎”は机から飛び降りて、カンナに手を差し伸べる。
「悪魔の真似事は随分長い仕事だったけど、ようやく、あとちょっとのところまで来た。『カグツチ』本体とは似て非なる方法で、“火”の欠片を育てて、毒を作ってたの。炉に放り込めば反応して、『カグツチ』は無力化して消滅するはず。材料として必要なのはあとひとつ……あとひとつ、願いを叶える代償を得られれば、奴らを潰せる武器が完成する」
“兎”の顔と、手の上の炎を交互に見る。ようやく整理のつき始めた脳内では、欺かれていた怒りと、使命感が燃え滾っている。
「さあ、あなたの願いを教えて?」
カンナは“兎”の手を取って立ち上がり、まっすぐその瞳を見つめた。すべてを知った今、迷いはない。
「私の願いは、解放と復讐。……『カグツチ』を止め、『天之尾』を潰すこと」
“兎”が微笑むと、制服を着た少女の像が歪み、銀髪碧眼の女性に変化していく。握った右手の中指に爪が触れ、一筋の血が滴り、炎の中に落ちて煌めく。
「あなたの願い、叶えましょう」
正体を現した“兎”——もとい、“零番”。
その姿はまるで、天使のようだった。


管制室に警報が響く。一報を聞いて駆けつけた皆川は、息を乱しながら主幹装置の画面を覗き込む。
「何が起きてる!」
「わかりません!ただ、コントロールが一切利かず……それに、一二番に至っては脳波もバイタルも、何の情報にもアクセスできなくなっています!」
操作員を押しのけて、皆川は強制アクセス用の緊急装置を作動させようとしたが、奮闘虚しく、システムがすべてシャットダウンしてしまった。一斉にモニターの光が消え、管制室を混乱が支配する。
「とにかく、ここを出るしかない。退避だ!」
操作員たちは散り散りに近くのドアへ押し寄せる。しかし、一向に退避は進まない。
「皆川司令官!ドアが開きません!」
開閉用の操作盤も反応せず、重厚なドアは沈黙している。たとえ大災害が起きようと、停電しようと、『天之尾』の施設は正常に稼働するように設計されている。『カグツチ』の力は、外部の状況に影響されないためだ。
管制室が無力化されたということは、想定外かつ、異質な力が働いたということ。そしてそれが、『カグツチ』と並び立つほどに大きいか、あるいは『カグツチ』本体に影響を及ぼしているということだ。
そんな芸当ができる者は少なく、自ずと対象も限られる。
「っ、とにかく、力尽くでこじ開けろ!破壊しても構わん!」
操作員たちが懸命に脱出を試みる。ある者はドアを力の限り引き、またある者は手近な備品を手に取ってドアを殴りつける。
混乱と喧噪の中で、皆川は頭を抱えた。カンナが“兎”と再度対峙している可能性を思い起こし、胸騒ぎを覚える。“兎”との接触は、『カグツチ』の場所を辿られる危険性と背中合わせだ。調整を行ったものの、カンナが“兎”に取り込まれる可能性は捨てきれなかった。
それに、“兎”と“神兵”が引き合わされるのは非常に好ましくない。“兎”の出自や能力を考えれば、なおさらだ。時期尚早だったか。せめて、もっと早く想定して、対策を練るべきだった。悪い予想がすべて転じれば……この状況に繋がることは造作もない。
最悪のシナリオを必死に振り払い、皆川はシステムの復旧方法を思いつく限り試し続けた。

どさり、と気を失って倒れた職員を避けて、カンナと“兎”は歩みを進める。厳重なセキュリティも、立ちはだかる職員たちも、人智を超えた魔力と“神兵”の力の前では無力だった。
“兎”は手の上で炎を灯したまま、迷いなく進んでいく。
「……この先だ」
施設の最下層、迷路のように入り組んだ通路の先に、ひときわ大きく、強固な扉が現れた。“兎”の手の上で炎が揺らめいて、その輝きを増す。
「手を貸して頂戴」
カンナが手を差し出すと、“兎”はその手の上に炎を滑らすように移動させた。存外やわらかな温もりに反し、身体は熱をもって汗が滲む。
「少し持っていて。すぐに終わるから」
“兎”は指先で印を結び、小さく唇を動かした。祝詞の類であることはわかったが、カンナも知らない古めかしいそれに耳を傾けていると、扉が軋みながらゆっくりと開いていく。
「盗んだときも、ここだったのか?」
「ええ。ほんの少し鍵が複雑になってたけど。呑気なものね」
炎を“兎”に返しながら、辺りを警戒して進む。通路の先、部屋が開けると、そこには巨大な炉のような装置が鎮座していた。石で組まれたその中では禍々しい色の炎が燃え盛っており、周りには結界が何重にも張り巡らされている。
「骨が折れるわね」
“兎”が溜め息混じりに呟いたその瞬間、カンナは何者かの気配を感じて刀を構えた。“兎”に向かう影を捉え、庇うように割って入る。刀身で受け止めた手応えのまま振り抜くと、対面の壁が抉れて崩れた。
瓦礫を押し退けて、人が這い出て立ち上がる。ふらつきながら体勢を整えて、何かを投げ捨てる。投げ捨てられたそれを見て、カンナは目を疑った。特徴的な、茶色い鼈甲の眼鏡。
「いやあ、なかなか効くな。さすが私の作品だ」
破れたシャツの隙間から、機械のような鉄鋼が覗く。見知った顔の、知らない姿に、カンナは息を呑む。
「……私が食い止める。そっちはそっちで進めて」
「そのつもりだよ。よろしくね」
“兎”は目を閉じて、結界の解除に集中する。祝詞を唱え、相手の動きよりもほんの少し早く跳んだカンナが、容赦なく身体を押さえ込む。刀を突き立て、動きを封じると、相手はどこか満足気に笑った。
「いいね、その武器は君に合っていたみたいだ」
耳慣れた声、親しみの込められた眼差し。この組織の中で、唯一カンナに寄り添い、気にかけていた存在。
「……あんたも化物だったんだ」
普段の皆川の姿を頭に思い起こしながら、カンナは憐れむように呟いた。

“神兵”の生まれる様は、いつだって恐ろしく、美しい。
弱く、純粋な人間が、特別な存在に生まれ変わる。
神秘と技術が組み合わさって生まれるそれは、回を重ねるごとに性能を上げていった。敬虔たるだけの賢さに、信仰と忠誠を解する感性。プログラムで動くだけの機械ではなく、身を捧げて闘う兵士。
そのためには、心が要る。適度に揺らぎ、迷う、心が。
それは弱さの理由にもなるが、強さの引き金にもなる。そして、より強固な忠誠心の動機にもなる。
慎重に誘導して、育てていくことが肝要だ。単純な洗脳よりも難しく、しかし、それだけ強い手綱になる。
もう、試作品“零番”のようなことは繰り返さない。
そのために、演じてきたのだ。
理解者として、彼女が守るに値すると思えるような人間を。
裏切れない、組織の象徴を。

「化物?」
皆川は自らを見下ろすカンナの言葉に噴き出す。
「何を言うんだ。君は“神兵”……化物なんかじゃない。在るべくして生まれた、敬虔な戦士だ。そして、僕もまた……大いなる目標のため、脆い人の身を捨てただけだよ」
刀を引き抜いて、放り投げる。拳を振りかぶると、カンナが飛び退いた。その隙に、皆川は立ち上がる。
「まさか、君が“兎”と手を組むとはね。残念だよ、カンナ」
カンナは、ぎり、と歯噛みする。
組織でただひとり、自分を“一二番”と呼ばなかった皆川。これまでの信頼をすべて裏切られたような憎しみで、胸が灼けるように痛む。彼はもはや、自分の知る皆川ではない。いや、初めから、理解者たる彼は、存在しなかった。すべて、まやかしだったのだ。
作り物の信頼、親愛。
なんて、愚かな。
「その名を、呼ぶな!」
祝詞を唱えて床を蹴り、刀を取って神速のまま突進する。貫かれた装甲は刃に取りついて、カンナは柄から手を離した。
「無駄だ。この身体も君と同様、『カグツチ』の加護の賜物。打ち破れはしない」
刀を引き抜いているその隙を突くように、脳天を狙って銃の引き金を引く。皆川が弾丸を手で弾くと、懐に滑り込んだカンナが顎を目がけて突き上げた。ぐらついた皆川の上に馬乗りになって、振り上げた拳で顔のすぐ横を殴りつける。
わずかに避けるような仕草を見せた皆川の様子に、カンナは小さく笑って独りごちた。
「頭は“本物”か。……あんたも、中途半端じゃないか」
見上げる皆川の瞳に、カンナの顔が映る。蔑むように、それでいて縋るように微かに色を変え、震える頬に、皆川の手が触れる。
「君は……中途半端じゃない。間違いなく、『天之尾』の……僕の、最高傑作だ。ああ、不要なデータを引き戻されて、可哀想に……」
「……可哀想?」
皆川の手首を掴み、押し返す。取り戻した記憶が、積み上げられた記憶と繋がって、浅はかな思惑の像を結ぶ。心からカンナを想うようなその声音にも、嫌悪を覚えた。
信じていた。信じられる相手は、彼しかいなかった。
その頃にはもう、戻れない。嘘を知った上で、もはや傾ける情もない。
そのはずなのに、子どもじみた感傷が拭えなかった。詰るような糾弾と、訴えかけるような悲愴。彼の優しさと慰めに、救われていた自分の存在は偽れない。
深く呼吸をして、込み上げる感情を呑み込む。熱を帯びた感情を悟られぬよう、努めて冷ややかに声を発する。
「私からすべてを奪っておいて、白々しい。失ったことも知らぬまま、仇に飼い慣らされて生きる方が、ずっと哀れだ。私はようやく救われたんだ」
皆川は落胆したように眉を下げて、溜め息をつく。
「心外だね。それで、本当に救われたと?知る必要もなかった痛みを抱えて、君は本当に幸せなのか?」
カンナは笑みを漏らす。この男もまた、紛うことなき化物だ。いくら人を、心を、分析しても、理解には到底及ばない。
自らの理想と妄想を正しいと信じて疑わない、研究者にありがちな、狂信者。“人擬き”の創造主にこれほど相応しい男もいないだろう。
自意識の外側で微かに抱いていた、人間としての期待を打ち砕かれて、虚しさとともに冷静さを取り戻す。
「……少なくとも、不幸じゃない。あんたに、飼われるよりは」
皆川は目を見開いて、腕を持ち上げ、カンナの肩を掴んだ。踏ん張っても為す術なく押し負けて、形成が逆転する。狂気を帯びた瞳を爛々と輝かせる皆川の、機械化した手がカンナの目の前で火花を散らす。
「駄作の悪魔に誑かされるなんて、実に嘆かわしいよ。今すぐに!ここで!直してあげよう!」
強化の祝詞を唱えながら必死に抵抗を見せるカンナを、皆川が嘲笑う。
「教えてやろう。無駄なお喋りなどせず、とどめを刺しておくべきだったんだ。とはいえ、よく奮闘したね。君にはやはり、まだ伸び代がある。さあ、『カグツチ』の加護に身を委ねるといい……」
自らに迫る手を受け止めながら、カンナは不敵に笑った。
「あんたが、無駄の価値と思惑がわからない男で良かったよ」

「……お待たせ」
結界の解除を終えて、炉の目の前に辿り着いた“兎”が、手の上から炎を落とす。『カグツチ』の猛火に呑み込まれた炎が鮮やかに輝いて、滲むように広がりながら、周りの炎の色を変えていく。
「本当に……長い間、お疲れ様」
白銀の髪が、熱風に靡く。獣の類の咆哮にも似た轟音を立てながら、炎がうねる。大蛇が藻掻くように蠢いたかと思うと、次第に炎は禍々しさを失い、より明るく、収束していく。

カンナの頭を捉えんとしていた皆川の手の出力も、急激に下がっていた。訝しげな表情を浮かべたまま、装甲も剥がれ落ち、奪われていく。
「何……!?」
皆川が振り返ると、『カグツチ』は既にその色を完全に変え、明るく燃え盛っていた。しかしそれは、燃え尽きる間際、儚く光を増したに過ぎず、その力は火の粉と共に霧散するが如く、消え失せていく。
「そんな……!?あれだけ厳重に組み込まれた結界が……早すぎる……!」
例に漏れず、皆川の身体を固めた装甲も、動力も、小さくなっていく炎に吸い込まれるように消滅していった。
「あんたが私に執着してくれて助かった。初めから、闘おうとか、決着をつけようとか、そんなことは考えてなかった。気を逸らして少し時間が稼げればそれで良かったんだ」
カンナは起き上がって、『カグツチ』の炉を眺める。“兎”が手にしていた炎は、炉の真ん中で輝き、段々と全体が収束して、小さくなっていく。
「馬鹿なことを……『カグツチ』を止めれば、君の身体もタダでは済まんぞ」
「わかってる。まあ、“カグツチ”に関わらず、滅びるさ。なんせ、“悪魔”と契約してここに来たんだから。でも、それでいい」
体内に漲っていた力が抜けていく。心地良さすら覚えながら、カンナは皆川に微笑を向ける。
「あんたの誤算は、私を人のまま育てたことだ。私が感情や思考を根こそぎ失っていたなら、こうはならなかったと思う。……本当に、感謝してる」
皆川の瞳から毒気が抜けて、諦念の籠った笑みが浮かぶ。
彼女の中に、心は育っていた。これまでのどの“神兵”よりも緻密で、豊かな情操。
しかし、世界を護るという表向きの使命に、心を傾けすぎてしまった。“神兵”の名に違わぬ、信仰。そして、世界を“護る”べき神に向けられた忠誠。
すっかり忘れていた。
人を育てるのは骨が折れる仕事で、導くことは輪をかけて難しい。
だが、その結果はどうあれ、親にとっては喜ばしく思えてしまうのだ。たとえそれが、自らの身を破滅させることになっても。
“神兵”としては、不適格。しかし、自分が造り替えた人間として見れば、あるいは。
結局のところ、自分も目的をどこかで誤ってしまったのだろう。だから、今、目の前に立ちはだかった彼女の姿を見て、自分は、こんなにも……
「ああ、君は……やはり、最高傑作の“人擬き”だ」
清々しい表情を残し、皆川の頭が灰と化して流砂のように崩れ落ちる。そのまま『カグツチ』に吸い寄せられたかと思うと、ふっとその火が潰えた。
……終わった。何もかも。
『カグツチ』が消滅したことで、『天之尾』は動力と基盤を失い、空間ごと崩れ始める。
脱出すべきだとわかっているが、身体が動かない。危機感も恐れも感じない。ここで朽ちるのが、己の宿命なのだろう。
カンナは揺れる地面に横たわり、すべてを受け入れるように目を閉じた。


目を覚ますと、見覚えのある天井が広がっていた。傍らにある窓から、光が差し込んでいる。
「おはよ、先生」
声の聞こえた方へ顔を向けると、そこには黒髪の少女が座っていた。白い肌に、そばかす。相手を見透かすような、不敵な笑み。
「……どうして」
「どうしてかなあ。あたしにもよくわかんないや。でも、ここはウチらにとってホームじゃん?とりあえずちょうどいいから」
起き上がって、辺りを見回す。時刻はまだ早朝で、保健室はもちろん、校内のどこも静まり返っているようだ。
「終わった……のか?」
「うん、間違いなく。『カグツチ』はあたしの持ち込んだ毒で死んだし、それによって『天之尾』も崩壊。職員をわざわざ殺してはいないけど、『カグツチ』を一から組み直すのは至難の業だし、無理だと思う。あれは呪術全盛期の粋を結集した代物だからね」
彼女の言葉に、カンナは胸を撫で下ろす。そして、自らの鼓動する心臓に首を傾げる。
「私は……この身体は、『カグツチ』に還らなかったのか」
「そうだね。あたしもそうだけど、きっと、『カグツチ』の外側に生きたからじゃないかな。『カグツチ』に呑まれても、残ったものがある。“加護”に頼らず、積み上げてきたものが」
彼女は背中の辺りを切なげに見遣る。背負っていたはずの鞄は、なくなっていた。恐らく、あれは『カグツチ』から盗んだ“火”の本体だったのだろう。
「あんたに残ったのは、そっちの姿なんだな」
「あー……うん、そうみたい。まあ、こっちの方がここでは目立たないし、困らないけど」
カンナは思い出したように、自分の右手の中指を見た。傷は塞がり、瘡蓋になっているが、契約の印は残っている。
「これは、どうする?」
指先を差し出すと、彼女は傷跡を覗き込んで、くすりと微笑み、首を振った。
「あたしが悪魔の真似事をできたのは、『カグツチ』の火を盗んだから。でも、もう還しちゃったし、消しちゃったし、どっちもできないよ。だから、あなたもこれ以上何かを支払う必要はない」
カンナの差し出した手を、彼女の手が包み込む。
「『天之尾』も、“神兵”も、『カグツチ』から生まれたもの。還してしまった私たちはもう、何も持ってない。何にも、縛られない。この姿、この形で、生きていくしかないんじゃないかな」
どこまでいけるかわかんないけど、と彼女は僅かに顔を曇らせた。不安げな彼女の手を、カンナは握り返す。
「契約が反故なら、借りがある。世界を救った“兎”の面倒は、私が見よう」
「へえ、“人擬き”が、“兎”を飼ってくれるんだ。楽しみだね」
軽口に、顔を見合わせ、笑い合う。清々しい風が、動き始めた街の気配を運び、新たな日々の訪れを告げていた。


『カグツチ』の消滅とともに、突如として山が崩れ、大穴の空いた土地は、立ち入り禁止となっていた。
事情を知らない人々からすれば原因不明の崩落に加え、元は様々な伝承が残されていたその地で起きた不可解な災害は、信心深い一部の近隣住民たちの間で、“祟り”だとまことしやかに囁かれた。
開発を進めようとするたびに事故や自然災害が降りかかり、その地に誰も手を出さなくなってから、さらにしばらく経って、とある権力者が土地の購入を申し出た。
「有難いお申し出ですし、金額も文句なしといったところではありますが……その、隠しておくのもバチが当たりそうなので、念のためこの土地の曰くについてお話させていただこうと思いまして……」
担当者が言いづらそうに口を開き、忌まわしき地として敬遠されるようになったいきさつを語ると、直接の契約と交渉のために街外れの事務所へ訪れていた男たちは穏やかに微笑んだ。ひとりは上質なスーツに身を包み、もうひとりは錦を織り込んだ見事な着物を羽織っている。
担当者の話を聞き終えると、スーツの男は笑みを崩さず、深く頷いた。
「ええ、ええ。お噂は聞き及んでおります。しかし、それも承知の上。いや、斯様な神秘をむしろ大きな魅力ととらえ、我々は購入を申し出ているのです」
すべてを了承した様子の男たちの態度に、担当者は安堵して手続きを進める。そこには、厄介な土地の管理における肩の荷が下りた解放感も多分に含まれていた。
滞りなく契約が成立し、事務所を離れると、男たちはその足で件の地へ向かった。

険しい道を、人間離れした軽やかさで進み、崩れ落ちた山の隙間から、大穴の奥へと躊躇なく分け入る。道中の瓦礫は、着物の男が手を軽く動かすだけで道を作るかのように開けていった。
最深部へと辿り着き、そこだけ埋まることもなくぽっかりと残された空間で、二人は足を止めた。
「ここが、かの『カグツチ』があった場所か。なるほど、まだ上質な魔力の残滓が残っている」
着物の男は目を閉じ、深く息を吸い込む。ゆっくりと吐いて、小さく唇を動かすと、呼応するかのように地響きがして、間もなく収まった。
「如何かな?」
スーツの男が問いかけると、着物の男は満足げに頷いて、羽織を翻した。途端に、人を模した皮膚が質感を変えて炭のように黒く染まり、紅い瞳が輝く。
「ああ、申し分ない……素晴らしい土地だ。我らの再興に相応しい」
着物の男が腕を持ち上げると、地の底から湧き上がるかの如く、炎にも似た瘴気が揺らめいた。
「『天之尾』はしくじった。使い方を誤ったのだ。こんなにも豊潤な魔力を“神”と結びつけるなど、愚策極まりない。嚙み合わぬ目的に何年も使役され、この地もさぞ疲弊したことであろう。まったく、不憫なことだ」
地面に手を着くと、霧が立ち上り、瘴気が集まって塊を成し、禍々しい気配を纏いながら、空中で鼓動する。
「眠りによる封印か。姑息な……しかし、不純なる祈りによる穢れを癒し、力を蓄えるには好都合。目覚めの暁には、より大きな力を振るえるであろう」
着物の男が瘴気の塊に触れると、唸り声のような鳴動が響き、空気が震えた。瘴気が濃く、鮮やかに色づいて、生命を宿すかのように蠢く。
その様子を見て、スーツの男は恐ろしさを覚えつつ、崇めるように膝をついた。強大な力に対する心酔と興奮で、身体が打ち震えるのを感じながら、恭順を示す。
「貴方の復権に、私はこれからも力を尽くしましょう。どうか、宿願為されますよう……」
着物の男が柏手を打つと、瘴気が収縮して消える。人の姿に戻った彼は羽織を翻し、スーツの男も後を追うようにその場を後にした。
二人が去った後の空間は、巨大な魔物が密かに息づいているかのような、不気味な沈黙で満ちていた。

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