なぜ人は助け合うのかを分析してみたら少し哀しくなった話
どうも、僕です。
皆さんはこう思ったことはあるだろうか。
「どうしてこの人は何のメリットもないのに助けてくれるのだろう?」
と。
僕はよく思っていた。
人が相談に乗ってくれたり、自分の時間や体力を使って優しくしてくれるのは、自分に利益があるからに過ぎないと考えていたからだ。
しかし人と関わりながら生きる中で、利益がない中でも助けてくれる人がいることに気付く。
そこで、どうやら一概に利益のためではないようだと思ったので無償の愛とも言えるこの現象は何によって起こるのだろうかと考えてみた。
1.概要
まず、忙しい人のために今回のnoteを1つの図で表すとこんな感じだ。
要するに利他行動とは、
①生物としての本能によるもの
②形式としてのもの
③互恵的利他主義
④理想によるもの
(自分のためのもの)
の4つと()内に分けられる。
一応だが、利他行動は以下の2種類だと考えて欲しい。
1.自己にメリットがないのに他人のためにする行動
2.自己を犠牲にして他人のためにする行動
1-まとめ.本文の前提
ともかく、利他行動が起こる理由は上記の4種類だと覚えていて欲しい。
そして、これを分類するのは行為自体ではなくそれをするに至った背景が何か?である。
例えば友人があなたに焼肉を奢ってくれたとしよう。
焼肉を奢る背景として
代わりにレポートの課題を手伝ってもらうためなのか、
収入が高く焼肉を奢る金など大したことないから飢えているあなたに奢っているなどが有り得るだろう。
焼肉を奢るという行為は同じでも、背景によってどの種類なのかは異なる。
2.自分のための利他行動とはどんなものか?
まず、僕の言う自分のための利他行動が何を指しているのかを明確にしておく必要がある。
一言で言えば、その行動をすることによって自分が得するか、損をすることを免れられるものだ。
例えば、自分が好かれるために気になっている異性に優しくすることや、責任を問われないように生徒に接する際の教師の優しさなどが挙げられる。
利他行動が「自己にメリットがないのに他人のためにする行動」であるため矛盾しているように聞こえるが、その行動自体にメリットはないが、回り回って自分の利益になったり不利益を免れられたりする、というニュアンスだ。
2-余談.人はとても利己的だ
利他行動に限らず人間の行動は基本的に自分のためのものだったりする。
自分のための政治、自分のための慈善事業、自分の利益ための報道など、挙げていけばキリがない。
実際、ニュースや政策の背景を建前に包まれた自分の利益のためのものだと仮定して見たら、恐ろしいほど辻褄が合ってしまうことはとても多い。
安い陰謀論者にならないように注意しつつ、こんな話もまた書いてみたいと思うので良かったらまた読んでほしい。
3.本能によるもの
ここでは、本能による利他行動を解説する。
人間に限らず生物は、自分の種族、血縁を残すための本能がある。
皆さんが大好きな生殖本能が最たる例だ。
それに準じて自分の血縁者には見返りなく尽くすという本能も備わっている。
これは生物の起源より備わっている本能のため、個体差はあれど基本的に全ての個体が持っているものだ。
実際、一般的な両親はあなたがお金を払ったり働いたりしなくても食事を作ってくれたり、働かなくてもお金を払って養ってくれたりするだろう。
また、この傾向は自分の血の濃度が濃いほど強くなると言われている。
つまり従兄弟よりも兄弟の相手の方が強く働いたり、甥っ子よりも息子相手の方が強く働いたりするらしい。
そういえば、嫁と姑の仲が悪いなんていうことをよく聞く。
ふと思ったことなので正誤は分からないが、この現象はこの本能が働かないためかもしれないと思うと納得は出来る。
4.形式としてのもの
これは最も取るに足らないものなので、短めに説明したいと思う。
先輩が後輩に食事を奢る、なぜならそういうものだから、そのように教わっているからなどといった自分の意思や思考を捨てて周囲の文化や形式に隷属する行為だ。
はい、以上。という感じだ。
5.互恵的利他主義
互恵的利他主義とは、利益があるかどうかは不確定だが与えることの労力が大きくないので与えることである。
例えば友人に頼まれて自分が既に終わらせている宿題を見せてあげることや、席を立つ時についでにゴミを捨ててあげることなど、割と日常的に起こっているものが多い。
人と関わる中で受けるものは、だいたい互恵的利他主義で説明が付くことが多い。
6.理想によるもの
これは、その人の生き方や考え方に依存する行為のことだ。
これを説明するにあたって私が『捉え方の哲学』と呼ぶ重要度の高いトピックを簡易的に解説したい。
6-補足.捉え方の哲学を要約(3文で)
捉え方の哲学とは、文字通り正しい/間違っている、正義と悪、こうあるべき/こうあるべきでない、というのは捉え方次第でいくらでも決められるということだ。
人類史において多くの人を殺すことで英雄になる時代背景もあれば、目の前の1人を殺害するだけで大罪人となる時代背景もあったことを踏まえれば、正義や悪、正しさ、べき/べきでないというもの絶対的なものではないと用意に説明がつく。
これを人生に落とし込むと、正しさや理想は捉え方次第でいくらでも変わるということになる。
6-主文.理想による利他行動とは
一言で言うと、そうすること自体を素晴らしいとする価値観のことだと思う。
捉え方の哲学で言うと、"自ら選んで"そうすることを素晴らしいと捉えてるという事だ。
人を助けることを生きる意味と捉え、ボランティアとして地域の介護や看護に無償で従事するなどの行動が例として挙げられるだろう。
そして実際、介護や看護をした相手の生活が良くなること自体に心の底から喜びを感じるような人による行動だ。
そしてここでは、無償の愛を届ける自分に酔っているようなタイプの行動は除外して定義したい。
例を出せばある社会問題に対する募金をし、良いことをした気になって満足し、その問題が解決したかどうかは気にも留めないようなことだ。
7.終わりに
まとめると、人から助けて貰ったり無償の愛を届けてもらった時には自分のためのものも含めた5通りに分類できる。
そしてここまで色々書いておいて恐縮だが、多分こんなことを考えずに優しさを率直な優しさとして受け取る人生の方が幸せだと思う。
僕は本文の内容に気付いてから、何かをしてもらった後にその5つの中から分類する。
が、それをする度に少し哀しくもなる。
7-締.独白
最後の締め括りとして主題からは逸れるが、
このように知らないでいた方が幸せなことは多いと思う。
というか、何も知らないことは大いに幸せに結びつくはずだ。
自分より稼いでる人がいると知らなければ金銭での悩みはないだろうし、裕福な生活があるということを知らなければ貧困を不幸とも感じないだろう。
このように、「知」というのはよく人を不幸にするものかもしれないと思っている。
人間を人間たらしめてきた「知」が人を不幸にするというこのパラドックスのような現象について、まだ私は答えを持たない。
しかしいずれはこのnoteで解き明かしたいと思う。