月に名前はいらない。

最近、家長むぎさんを見始めた。

家長むぎさんのnoteの中に、月に関して語っているものがある。
私は家長さんの素直な感性とそれを表す言葉の数々がすごく心地よく感じて、家長さんの文章がすごく好きだ。


月。
大昔に隕石が地球にぶつかってできた、普通では考えられないくらい大きい、地球で唯一安定的に存在する天然衛星。人類が到達したことのある唯一の地球外天体。


私は今まで月を見上げることが少なかった。それは私が家に引きこもっているからであり、月が見える夜の時間帯に外に出ることがないくらい子供だからだ。

私の月は、昼間にしかいないものだった。青空にぽつりと浮かぶ、淡い丸だった。それに名前を付けて自分のもののように感じているわけでもなく、ふと顔を上げた時にひっそりとただそこにあるだけだった。

たまに夜の月を見る。それは祖父母の家に行ったときだったりとか、どこか遠くに旅行に行ったときだったりする。夜の月は、私が知っている月よりもずっと明るくて、私にはひどく眩しい。昼間のあのひっそりと息を潜める月しか、私は知らなった。これほどに、月の居場所が夜であることに、私は衝撃を受けた。

夜の月にはたくさんの名前があることを知った。朏、望月、偃月。上弦、下弦。朧月、名月、寒月、風月。ほかにももっともっとたくさんの名前をつけてもらっていて夜の月が羨ましい。


今まで色んな人が夜、一人で、もしくは大切な人と一緒に、月に思いを馳せてきたのだろう。その大切な時間を、どうにか形にして、確かなものにしたかったのだろう。

言ってしまえば、月なんてものはただの岩だ。岩に光が当たって輝いて見えるだけだ。そんな当たり前のことさえ知らずに、むしろ知ってなお、それを大切なものだと思いたくて、感じたことや見たものを少しずつ切り捨てて、確かなものにしようとしている。

月はただの岩だ。それにこんなにも心を許した人がいることに、私は人の歪さを感じてしまう。他人を蹴落として、我が儘に生きることが正しいとされる世の中に、こんなにもたくさん月の名前がある。
私は人は正しくあるべきだとは思わないし、歪であることが間違っているとも思わない。きっと歪であることこそが人を人たらしめるものになっていくんだろうなと、ぼんやりとした月を眺めながら思うだけだ。

私の好きな儚い月を眺めていると、ふとこの月が永遠にここにあるように思えて驚く。ぼんやりと、ひっそりと、今にも消えてしまいそうな弱弱しい月が、確かにこの先も生きているのだと思えてしまう。
一緒に月を眺めれるような人がいてくれたらいいな、とか、「月が綺麗ですね」なんて言葉を必要としないくらい当たり前に隣にいてくれる人を大切にできる人でありたいな、なんて考えながら、だんだん輝きを増す月を見て、ああ、やっぱり月も夜が心地いんだ、なんて思ったりする。


私の好きな月に、私は名前はつけない。それはきっと私の好きな月が人見知りだから。ひっそりと息を潜めた月を引きずりだして、私の横にずっと居続けるものにしたくない。私が気付かないようなところに居てほしいし、ふと空を見た時に気まぐれにそこに居てほしい。もしかしたらもう二度と会えないかもしれないけれど、私はその月が隠れているだけということを知っているから、それはそれでいい。

不確かな月を眺めながら、ゆったりと流れる時間に身を任せるのが、私は本当に好きだ。忙しない毎日に疲れてしまっても、その時間を忘れてしまったとしても、名前なんてなくても、私はきっとここに戻ってこれると、根拠もなく信じられるから、安心だ。


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