夢から冷めてしまう前に。

誰もが青春を夢見て期待を胸に登校する、高校生になった春。

私は入る学校を間違えた。

周りは真面目な人たちばかり。
中学の頃のように信頼できる人とは出会えなかった。

毎日息が詰まるようで。
周りの顔色を窺って息を潜めて、
名前も知らない誰かに対する愚痴を笑って受け流して。

ここにいるみんな、そうなんだと思った。
入る高校を間違えたと思った。
みんな笑っているのに、私だけが歪だった。


夏になれば、
楽しかったはずの吹奏楽も、なぜ続けているのかわからなかった。
吹奏楽部以外に部活をすることなんて、入部する前も後もそれに気づいてからも、考えられないくらい、吹奏楽が好きなのに。
なんだか、とっても、楽しくない。

誰も信じられない。
誰と居ても息が詰まる。
幼稚園からずっと仲良かった親友が、周りとうまくやってるのを見て、相談はできないと思った。
うまくやっていけてない私は、みんなとは違うから。


ここでは生きていけないなと思った。


昼ご飯が食べられなくなった。夜寝れなくなった。
学校に行けなくなった。


ご飯が食べられなくなってすぐに、体調をすぐ崩すようになった。
食べられなかったら当然だけれど、足元が崩れていくような気がした。

そうあるべきじゃないと思った。
それは私も周りも、家族も、誰も求めてないこと。


食べれなかった昼ご飯を、毎回場所を変えてどこか適当なところに捨てて帰るようになった。
それは学校のごみ箱だったり、草むらだったりいろいろだった。
知られたくなかった。私は大丈夫だと思いたかった。

言い逃れのできない、明確な形で、
私の大丈夫じゃない形跡が残るのが怖かった。


明日行くため、って言い訳をして学校を休むようになった。
不思議と家ではご飯を食べられた。
学校に行きたくない口実を作ろうとしてるだけなんじゃないかと、無意識下でわざと食べないように、吐くようにしてるんじゃないかとさえ思った。

当然、学校を休んだ日に部活には行けないから、部活にも行かない日が増えた。周りの人は私がサボり始めたと思ったのだろう、心配と非難の混じった目を向けられることが増えた。厳しめに怒られることも増えた。

余計に、行きたくなくなった。周りの人がみんな怖くなった。


2週間に1回だった休みはいつの間にか1週間に1回、2回と増えていった。
欠席数は一瞬で増えて、あと一歩で単位を落とすところまできた。


死にたくなりながら、毎日、頑張っていたのに、
ある日、本当に、本当の限界が来た。
朝学校に向かう途中で足が動かない。
ずっと前に開いた踏切の前で、行かないと、行かないと、って焦るのに、私の目の前で何度も踏切は開いて閉まってを繰り返して。
なんとか無理矢理に足を動かせた頃にはもう間に合わない時間だった。

もう無理なんだと悟った。

雪がちらついていたあの日は、1限に落とすギリギリの教科があった。
教室に入った私を見た担任は、どこか怒ったような、冷めた目をしていた。
起きれなかった?という問いに、はい、と答えた。


私は、病院に行きたくなかった。

精神病に、どこか甘えのイメージがあったのだろう。
自分が普通の状態でないのは分かっていたけれど、
親も、妹も、部活の同期も先輩も、ずっと気にかけて家にまで来てくれた担任も、それに名前がついたら私を見捨てると思った。

甘えで学校を休むような人は必要ないから。


病院に行った。
単位がどうしようもなくなったから、診断書をもらって特活進級にするしか道がなかった。

病院の先生を前にしても、本当のことは言えなかった。
学校に行けない、夜寝れないって、それだけしか言えなかった。
それだけ言って、あとは母に任せた。
言いたくなかった。
お母さんが、犬の散歩もあるのに、おじいちゃんが死んで相続とかも大変でしっかり休めてないのに、うさぎが死んでその傷が癒えていないのに、朝早起きしてお弁当を作ってくれてるのを知ってたから。

ついた診断はうつ状態だった。お医者さんは診断をつけるのにすごく迷っている様子だった。私が言った症状だけではうつ病とは言えないようだった。

本当にある症状も、親が知らないものはいくつかいいえと答えた。

薬を出すには診断がいる。
私は何か薬を処方してもらえる症状を言えば何でもよかった。
診断書さえあれば欠席数が学年全体の3分の1を超えなければ進級できる制度だったから。

だからなんでもいいや、って思った。
考える余裕もなかった。

この頃の私は、吹奏楽ができればそれでよかった。
とっくに楽しいことではなくなっていたけれど、楽しいふりをしていたし、
楽しくないと認めてしまったら、本当に楽しかったはずの中学校での私を全部否定してしまうような気がして。

吹奏楽は変わらず好きだった。でも、楽しくなかった。
みんなと同じようにできれば、昔のように楽しく音楽ができると思っていた。


私は進級できた。

新しいクラスは謎の力が働いたおかげか吹奏楽部の子がたくさんいて、
知ってる顔が多かったし、話しかけてくれる子もいた。
前のクラスで仲良くなりたいと思っていた子とは、(名前を挙げてないからおそらく偶然に)同じクラスになれた。

席も、私の希望を通して先生のちょっとした手品で窓際にしてもらえた。


配慮されている。
治さなければ。直さなければ。

そうじゃないと、また私は。


私は1年生の時に、
マーチングコンテスト、クリスマスコンサート、定期演奏会に出ていない。

練習に出てこない上に、診断書まで出してきた。コロナやらインフルやら風やらに罹りまくってまともに練習もできていない。
顧問も、パートの人も、きっとすごく心配した。
配慮したんだろう。きっと。


休んで、治してこい。
その言葉を、私は、私が危惧していたように、見捨てられたと受け取った。


学校になんで行ってるのかわからなかった。
自分で言うのもなんだけど人より勉強はできたし、学校に行ってなくてもテストは基本的に平均以上をとれていたから。

クラスで喋れる人もいないし、部活にも出れないなら。
勉強は家でもできるのなら。
全部辞めてしまえば良い。


でも、

顧問が作る音楽が好きだったから。
ここで吹奏楽をしたかったから。楽器がうまくなりたかったから。
部活を辞めたくなくて、学校を続けた。



結局、今年に入っても何も良くならないまま、
せっかくメンバーに選ばれていたのに、
コンクールとマーチングコンテストは降ろされることになった。

何も良くならないまま、というのは少し間違っているけれど、
周りにはそう捉えられたみたいだった。



望みが断たれると書いて、絶望。私はそれを実感した。


周りの人が怖いのも、
先輩や新しく入った後輩、同期といっぱい話して少しずつ克服できていた。
病気も、少しずつ受け入れられるようになった。隠し事も減った。
薬を少しだけ強いものに変えて、朝起きるのが楽になった。


私を繋ぎ止めていたたった一つの希望が、
みんなの中で一緒に頑張れば、夏の期間を通して完治できるかもしれない、みんなと同じように吹奏楽をまた楽しめるようになるかもしれないという、天国に繋がる一筋の蜘蛛の糸が、

ぷつんと切られた。


顧問の言い分をそのまま飲むなら、
私が切った。


残酷なようで、本当に残酷だ。



私はかなり頑張ったと思う。
一人では抱えきれるはずのないものをなんとか溢れさせないように必死に取り繕って歩いてきた。

私なりに一生懸命に、みんなと同じように真剣に、
音楽と向き合ってきたつもりだった。
特にコンクールに関しては、誰よりも深く曲を、コントラバスを知っている自負があった。
オーディションでは票数も先輩を上回ることもできた。

私なりに、体が、心が治りきらないなりに、
全力で、本気で、向き合ってきたつもりだった。


その一縷の望みを掴むためなら嘘をつくことに何の抵抗もなかった。
ずっと嘘で隠してきたから、染みついてしまっていたのかもしれない。
それが裏目に出たんだろうけど。


顧問にうつ状態をカミングアウトさせられたこともあった。4月のはじめぐらいだったか。公開処刑だと思った。年度初め最初のミーティングで、皆が見ている中で泣きながら病気で来れてないんですって言って、うつ状態なんです、って言って、何になるんだろうと思った。
顧問の言葉を借りるなら、「配慮」だったのかもしれないけれど。

彼の真意は分からないけれど、
私にとってそれは、伝わらない人はいるんだなという確かな実感で。


大嫌いになった。
顧問が、見てるだけで何も言ってくれない周りが。
何も言い返せない、何の人望も持っていない私が。


辞めようと、多分初めて、本気で思った。
顧問を含めて周りの全員が、私が口下手で人と直接話すのが苦手で、考える時間をおかないとまともに話し合いもできないということを全く知らないように思えた。

私が嚙み砕けていない間に。
私が、私を伝えるために必要な言葉を探している間に。
一気に畳みかければそれで早く話がつくと思っているんだろうな。


そう、思ってしまった瞬間。
私はこの人たちとはやっていけないと思った。

そう思ってしまった私も悪い。そう思わせたあなたたちも悪い。
でもきっと誰も悪くない。


誰も悪くないから、私はあなたたちとはやっていけないと思った。
あなたたちから見たらすごく身勝手なのかもしれないけれど。


部活も、学校も、全部辞めて、
ゆっくり自分のペースでやりたいこといっぱいやろうって思った。
そうしたらみんなが幸せになれるじゃんって。そう思った。

それは本当。



でも。本当は。たぶん。
きっと本心は辞めたくなかった。

今までにも何度も辞めようと思ったけれど、
その度に吹奏楽を諦めるわけにはいかないと思った。

自分の中に、まだそれだけのものが残っていることに驚いた。


最後の意地だったのかもしれない。
出来ていない自分を棚に上げて、醜く汚く、形振り構わず、人からの信頼も唯一持てていた希望も全部無くしてなお、辞めたくなかった。
それは執着という言葉でしか言い表せないものかもしれない。



正直、顧問の性格やら"配慮"という言葉の捉え方やら気に食わないところは山のようにある。カミングアウトさせられたことも全く許していない。

周りの子とも、相手は気にしていなくても私は納得できないまま、話題に出さないことでなんとなく終わったことにしていることもたくさんある。



でもきっとそれだけじゃないと、
私は信じているし、そうであってほしいと本気で祈っている。


一つ一つの音を丁寧に、全ての楽器を活かして。
上手い人も下手な人も、平等に、シビアに。

顧問の作る音楽はそういう、非情なまでに理性的で明快な、彼なりの音楽の美学に則っている。


分かりやすく、そして誰にも分かられないその美学が、私は好きだ。



中学の頃、私は合奏中に顔を上げて周りを見て、たまにクラリネットの親友と目が合って「ここってこう吹きたくない?」ってお互いの解釈の披露会をするのが何より楽しかった。

上手い子も下手な子もいて、仲良い子も仲悪い子もいて。
私とは楽器も性格も家の環境も何もかも違う人たちが同じ場所で同じ音楽をしていることが1つの素晴らしい奇跡で、すごく神秘的なものだと信じていた。

中学生の、たいして上手くもないお遊びみたいな合奏のたびに、
毎回違う気付きがあって、その度にゾクゾクして、すべてが尊くて、そのすべてを愛していた。


それが執着に変わり果てるほどに。



だって、
それが今のレベルの高いメンバーと、顧問と出来たらすごく幸せ。

その少しの欲が、これだけ私を苦しめているのに、私はそれを捨てることができない。
呪いのように、一生解けることのない小指の赤い糸のように。


中学の頃から友達は少なかった。
片手でも指が余るくらいの人としか喋らなかった。
どうしても話の合わない、仲良くなれる気のしない人もいた。
3年生の時に顧問が変わって同期がおそらく今までで一番団結して猛反発した。それを顧問と部員の中間の、ちょっと部員寄りのところで静かに眺めていた。


なんだ、今とたいして変わんないじゃん。
無理して人と同じにならなくても、好きな人とだけの音楽じゃなくても、
私を直さなくても楽しく音楽できてたじゃん。

すっと、魔法のように、力が抜けていくような気がした。


中学の頃合奏のたびに感じていたあのゾクゾク感はもう長いこと味わっていないことに気が付いた。

合奏はすごく楽しいもののはずなのに、いつの間にか、自分の音や周りの音を必死に聞いて、人に届けるのに相応しい音楽をしようとしていた。

そこには私が楽しいかどうかは含まれていなかったことを知った。


高校に入ってからずっと、病気を、自分が辛いことを認められなかった。
自分を許せなかったし、周りも自分を許していないと思っていた。
何かを愛すことも、誰かを頼ることも、信じることもできなかった。

自分は大丈夫だと思いたかった。たくさん嘘をついた。嘘をつくことに抵抗を感じなくなった。きっとそれが病気だった。


私はきっと、ずっと、
私のなかで複雑に絡まった糸を一本ずつ解くように、
もやもやと霞んで見えない私を、ひとつひとつ手に取って、この目の前に、確かに存在させるための言葉を探していた。

全部を曝け出して、嘘のない素直な私を、誰かに、私自身に、認めてもらえるような言葉を探していた。

きっとまだ上手くはできないけれど、
私が大切に大切に守り抜いてきたものを、少しずつ、優しく解いていってあげたい。それはたぶん、すごく素敵なこと。



きっと、私は、

私はあの時の、
夢のような時間に恋をしている。


青くて紫っぽくて、ちょっとだけピンク色で、苦くて酸っぱくて、
それですごく優しいこの気持ちを、心の底から愛おしく思う。

この色は、私だけのもの。



きっとまた、私は迷うだろう。
自分を、他人を信じられなくなるだろう。たくさん泣くだろう。

でも、ほんの少しだけ、
本当に少しだけだけれど、今、自分を確かなものにしてあげられたことは、覚えていられたらいいなって。

そんな、夏の始まり。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?