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歴史ドキュメント 元と高麗の侵攻
本日ご紹介するのは、『元と高麗の侵攻』(志岐隆重著)です。
この本を読めば、学校の歴史で習う元寇の真実が分かります。
筆者は高等学校で歴史を教えていた方で、日本史研究者でもあります。
多くの史料を読み込んで書かれた本書を読むと、私たちが漠然と持っていた元寇の知識は本当は史実とは違っており、明治以降の神国思想の影響を受けていることが分かります。
2度にわたる元寇、1274年の「文永の役」と1281年の「弘安の役」では、鎌倉武士が大活躍しました。よく、「名乗りを挙げての一騎打ちという戦い方をした」という風に捉えられていますが、本当のところは騎馬武者による集団戦法だったとのことです。
敵が用いた爆弾の「てつはう」も効果があったのは初めだけで、逐次上陸してくる元軍は、命がけで突進してくる騎馬武者たちの勢いに後退せざるを得ませんでした。武士たちはまさに「一所懸命」を旨に、死に物狂いで戦いました。
また1度目の「文永の役」に至るまで、モンゴル皇帝フビライは実に6回も日本に使者を送っていました。
『元と高麗の侵攻』から抜き書きしてみると、1回目(1267年)・2回目と3回目(1269年)・4回目(1271年)・5回目(1272年)・6回目(1273年)です。フビライの国書は、毎回それほど威圧的でもなく、『朝貢すれば戦争はしないよ。仲良くしない?』程度でした。多方面で戦端を開いていたフビライとしても真剣に日本を攻めようと考えてはおらず、未だ元を盟主としない日本を形式的でもいいから版図に加えようとしていたにすぎません。
しかしその670年ほど前、聖徳太子が『日出ずる処の天子、日没するところの天子に書を致す つつがなきや』と、上から目線で隋へ国書を出したくらいですから、「朝貢なんてありえない!」と鎌倉幕府も朝廷も問答無用で元の使者を追い返しました。しかも6回目の使者には「今度来たら殺す」と伝えています。
これにはフビライも激怒して遂に1974年10月、3万3千人が900隻の軍艦に分乗して攻めてきたという次第です。文永の役の詳細は本書に譲ります。
ところでフビライは文永の役後も、朝貢を求めて使者を2度(1275年と1279年)、日本へ送りましたが、1273年の使者に「次、使者が来たら殺す」と伝えていたとおりに、鎌倉幕府はフビライの使者一行を2度とも処刑しました。そして、怒りを増したフビライは1281年の弘安の役へと突き進むことになります。弘安の役に至るまでの経緯や戦闘の様子などについて『日本存亡の危機 元と高麗の侵攻』には、目からうろこの史実が書かれています。
ところで、弘安の役で日本軍の捕虜となった中国人を鎌倉幕府はスパイに仕立て上げ、中国本土に多く潜ませて元の動向を探らせていたそうです。戦うばかりではなくて、インテリジェンスにも重きを置いていたわけです。
島国なので外交には疎いと思われていますが、その頃の日本人はしたたかな面も持っていたようです。
また、実はフビライは三度目の元寇を企図していました。
国防次官級の使者が2回送られましたが、使者たちは日本に行ったら殺されることを恐れていました。
1回目の使者は海上の孤島に数カ月間とどまり「暴風雨で遭難した」と言って帰国しました。
2回目の使者一行は日本に着いたことは分かっていますが、なぜか行方不明になっています。
そしてフビライは心残りのまま1294年に80歳で亡くなり、3回目の元寇は実施されませんでした。
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『元と高麗の侵攻』
志岐隆重著
四六判並製194ページ
定価(本体1400円+税)
ISBN978-4-88851-247-3