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軍艦島(端島)に生まれ育ち閉山まで働いた男の半生 『私の軍艦島記』



長崎湾の沖合に浮かぶ世界文化遺産の島「端(は)島(しま)」(通称軍艦島)での人々の暮らし・文化・仕事・出来事が、写真と共に著者の一人称で物語られています。親の代から端島で生活してきた人しか知りえないエピソードはどれも興味深く、まるで良質の記録映画を観るようです。

加地英夫氏は端島に生まれ育ちました。中学・高校時代を長崎市内で過ごしたあと1951(昭和26)年19歳の時に三菱高島砿業所端島坑に就職し、以来1974(昭和49)年の閉山まで勤めました。在籍中は工作課という坑外の部署での機械の整備や修繕が主な仕事でしたが、入社当時は坑内で「保安」も担当しています。更に、難関の「甲種上級鉱山保安技術職員」の国家資格を取得していますので、炭坑の仕事全般を精緻にしかも丸ごと分かる人材でした。

周囲1200mの端島にはたくさんのビルが密集し、最盛期の人口は5267人(1960“昭和35”年の第9回国勢調査)にのぼりました。昭和の「三種の神器」と言われたテレビ・冷蔵庫・洗濯機はどれも本土に先駆けて普及し、住民はいろいろな体育系や文科系のレクレーションを楽しんでいました。二本立てを日替わりで上映する映画館は毎日満員だったそうです。

端島の島影が戦艦「土佐」に似ていたことから軍艦島と呼ばれるようになったことは知られていますが、そのきっかけが1921(大正10)年の長崎日日新聞の記事であったこと、そして1945(昭和20)年6月11日、アメリカの潜水艦「ティランテ」が端島で荷役中の石炭運搬船に魚雷攻撃したことが詳しく述べられています。しかもティランテは浮上して魚雷を発射し、浮上したまま去っています。敗戦間際とは言え、長崎湾の入り口まで堂々と米艦船が接近できたことに驚きます。

また加地氏は長崎市内の親類宅に下宿して旧制中学へ通っていました。一年生の夏8月9日、浦上駅から電車に乗って大浦方面に向かっている途中、被爆しました。爆心地から2キロ弱の地点でした。何とか下宿にたどりついたものの吐き気等が続き不安の日々だったと回想しています。一年生300人のうち約150人が原爆で亡くなりました。加地氏は被爆時の様子を詳述していますので、原爆災害の実相についても知ることが出来ます。

さて、毎週楽しみに番組をご覧になっている方も多いと思いますが、2024年10月から放送が始まったTBS日曜劇場『海に眠るダイヤモンド』は端島が舞台です。本書『私の軍艦島記』も番組ともに楽しんでいただけたらうれしいです。

2015(平成27)年に「明治日本の産業革命遺産――製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産として端島は世界文化遺産に登録されました。以降、多くの観光客が訪れるようになり、「軍艦島」人気は全国区になっています。
どうぞ『私の軍艦島記』をお読みいただき、軍艦島についてオールラウンドに語っていただきたいと思います。

『私の軍艦島記』
加地英夫著
定価(本体1600円+税)
ISBN978-4-88851-248-0
2015年12月初版
長崎文献社発行

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#出版 #長崎 #軍艦島 #端島 #炭坑