ひっそり発表します!これが私のこだわりの習慣。「コトバの御守り」
こだわりはありますか?と言う質問にいつも困ってしまう。
私には「これが、こだわりだ」と誇れるものなどないから。
というより、「自分、結構こだわりがあるんす」と言って胸を張る人が少し苦手なのです。
いつも「本当にぃ?」と疑いの眼差しで見てしまう。
先日もテレビを見ていたら、若い靴職人が「自分、奇数にこだわってるんす」というので、私の疑いの眼差しは瞬時に鋭くなった。
彼は、「例えば誰かに呼ばれる時に肩をポンポンと叩かれると、それが気持ち悪いので自分で肩をポンと叩き1回足して奇数にするんです」など、自分はいかに奇数にこだわっているかというエピソードを次々に話す。
その後、テーマは変わり「自分、オレンジジュースにもこだわりがあるんですけど、いつも買いすぎちゃうんです…」と言う話。司会者が「え?いつもどのくらい注文するの?」と質問すると、彼は胸を張ってキメ顔で「2ダース」と答える。
「そこは奇数じゃないんかい!」思わず私はツッコんでしまった。そのツッコミは深夜の住宅街に響き渡る。まぁ、彼の場合は靴職人と言う時点で、奇数にこだわるのは如何なものかと思うけど…。
おそらく、このほぼ揚げ足取りのような疑いの眼差しが自分に向けられるのが怖いのだと思う。
だからなるべく言わないようにしているのかも知れない。
しかし、あえて、ひっそりと言うが、こんな私にも“こだわり”みたいなものはある。
誰かを送り出すときに「気をつけて」と言うこと。
「おはよう」とか「いただきます」はフニャフニャと言うくせに、
「気をつけて」だけは、なるべくはっきり、忘れずに言う。
この習慣は、母親から受け継いだものだ。母親を思い出すときにはいつも「気をつけて」と言っている時の笑顔と真顔をブレンドしたような表情と優しい声を思い出す。
母がわざわざ小学校にまで「気をつけて」と言いに来た事があった。
あれは、小学3年の冬のよく晴れた日だった。1時間目の休み時間にふと窓の外を眺めると、母が必死に走って来るのが見えた。私は慌てて、校舎の入り口に行って出迎える。息を切らせ母は「気をつけるんだよ、じゃあね。」と言ってまた走って帰って行った。母の右手にはリレーのバトンのように黄色い傘が握り締められていた。
結局、その日から今まで、母がわざわざ学校まで来た理由は怖くて聞けていないのだけれど、この事は衝撃的な映像として私の頭の中に残っている。
今から思えば、「気をつけて」と言い忘れた事が、居ても立っても居られなくなるほど母の中で習慣化されていたのだろう。「気をつけて」は単なるコトバではなく“コトバの御守り”になっていたのだと思う。
もちろん、アホな少年はしょうもない怪我はするし、小さな事故にもあったけど、一応今こうして生きている。家族を持つようになるとそんな母親の気持ちが少しは理解できるようになった。
だから、私は、今日も家族へ“コトバの御守り”を配り続けます。
いかがですか?みなさんも大切な人にコトバの御守りを配りませんか?では、今日も、行ってらっしゃい!
「そこは気をつけてじゃないんかい!」
サポートいただけたら なによりワシのココロが喜びます。ニンマリします。 何卒よろしくお願いします。