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「僕は《違う何か》を書くんだよ」妻が感じた中島敦の意志

2024年は、中島敦の妻・タカさんが逝去して40年目に当たります。
タカさんをしのび、タカさんが敦との結婚、横浜時代の思い出などを語った、中島敦の会(1976年)の記録をご紹介します。
お話しいただいたのは48年前ですが、タカさんの覚悟と愛の深さが、今も色あせることなく伝わってきます。


中島タカさん略歴

1909年11月11日生まれ(敦と同年)。
1931年、当時帝大生だった中島敦と出会い、結婚を決意する。
1933年、長男誕生、入籍。
1935年、敦の勤務する横浜高等女学校の近く、横浜・本郷町で暮らし始める
1942年、中島敦死去。
1984年10月2日、逝去。享年74。

1976年12月 
中島タカさんのお話

敦と横浜高女

今日は、お忙しいところ、御足労いただきまして本当に有難うございました。昨年は、あのような立派な碑を建てていただきまして、皆様の本当におやさしいお情(なさけ)によって出来上ったという事を思い出しては、感謝の涙にくれております。

註/立派な碑…このお話の前年、1975年12月に建てられた中島敦文学碑(山月記冒頭を刻む)。

校長先生はじめ中島をあまり御存知ない方々も…そして岩田先生、山口先生などの御努力のおかげで、私といたしましては終生忘れられない感謝でございます。有難うございます。

註/校長先生…1976年当時の横浜学園(元・横浜高女)校長。戦後に学校へ着任したので、中島敦を直接は知らない。
岩田先生…岩田一男(敦の同僚)
山口先生…山口比男(敦の同僚)

私は、中島は(横浜高女に)勤めている頃は、(同僚の)先生方の友情を本当に喜んで、語っておるような様子を、中島から受けて居りました。
中島は本当に友達に恵まれておりました。頼りきって皆様に接して、その喜びを、帰ってまいりますと毎日ニュースとして報告してくれました。学校のどんなちっちゃい出来事でも、生徒が今日こんな事を言ったのだよということでも報告してくれました。と申しますのは、私が家庭にばかり居て世の中の話題から遠ざかっているような人間でしたので、中島がちょっと持って来てくれるニュースがとても嬉しいのです。
口笛がピーピーと鳴りますと、「お父ちゃんが帰って来た」と言って桓が小躍りして玄関で喜びます。「そんなに喜んでもらっても毎日の学校の勤めだから、いつもいいニュースばかりはない」と言うこともございましたが。

帰ってまいりましてから(食事、風呂など家族の時間は)二時間で、そのあとはもう読書をするとか、 自分の仕事に入ってしまいますから、私、いつも申しますんですよ。
「お父ちゃまはお友達のお父ちゃまであって、桓や私のお父ちゃまではないんですねぇ」って……。
すると中島は「ごめん、ごめん」とかなんか言ったりいたしましたけれども。

薬代に、生活費に…苦労の思い出

私は中島の勤め先の学校へはあまり伺いませんでした。二回だけ伺いまして、一ぺんは御挨拶に、もう一ぺんはどうしても(経済的に)通り抜けられなくて御無心に参りました。
ある時、泣く泣く元町の学校へ電車に乗ってまいりまして、しん校長先生のところへ「今月はどうにもやっていけませんので、どうぞ助けてください」とお金を拝借した覚えがございます。

註/しん校長先生…中島敦が勤めていた時の横浜高女校長・田沼志ん

その時に校長先生が「貴女ねぇ、時々いらっしゃいよ」とおっしゃいますが、お伺いするには非常に勇気がいったんですねぇ。その日はしのつくような雨でございまして。「ああ、こんな悲しい思いをして」というのが、学校には本当に一番強く思い出として残っております。
そしてその時、校長先生が私の洋服を見て、えんじに柄の入った洋服の生地を下さいました。私、着たかったんですが、当時、妹が来ていてもやるものが何もなかったので、妹にくれてやってしまいました。

註/妹…タカの妹、テイ。横浜の敦夫婦宅に1937年、1940年に起居した。

本当に何もなかったのです。私の御炊事はお釜の蓋をまないたがわりに使いまして、ジャリのきれいなのを道路から拝借して洗って漬物石にするというような事から始まりましたものですから。妹に何もやれないので、頂き物だけど、この洋服の生地を、と思ったのです。
でも、主人はあの時は烈しく怒りました。「自分で着ればいいのに何てことをするんだ」って。
怒りますのは やっぱり哀れんでくれたのですね。「せっかく校長先生が下さったものを自分で着ないでそんなにすることない」と言って・・・・・・。私の変な根性がいやだったのですが、また哀れんでくれましたのですが・・・・・・ということでございました。

校長先生が「そんなこと心配しないで又いらっしゃい」と言って下さいました。
私が(お金を)拝借いたしました時でも、(長女の)お産に失敗しました時でも、要人先生の奥様がわざわざいらっしゃって、ねえやさん(お手伝いさん)までおよこし下さって、「いろいろ気を配らないでゆっくりお休みなさいよ」と。
私は本当に女中根性が抜けなくて、ふせっていても起き上るんだと言うと、奥様が「いいよ、こちらからまいりますよ」とおっしゃってお若い頃、ご自身がお弱かった時の事をお話し下さって慰めて下さいました。それが忘れられない思い出でございます。

註/要人先生…横浜高女の副校長・田沼要人

いつくしむ愛 夫の《志》をたてるために

中島の全集が出て以来、毎年、一人か二人、論文を書く学生が私のところへまいりますけれども、本当に近頃の学生さんは単刀直入。
「先生と奥さんは恋愛結婚でしょう」とこうおっしゃるんですね。私はどぎまぎしてしまうんですよ。
「憐愛(れんあい)であって、あなた方の《恋》という字と違うのですよ」と申し上げるんですよね。そのくらい私たちは真剣でございました。 本当に、生きていくうえにおいて、中島の志をたてるようにと・・・・・・。
中島がどのような考えを持っていたか、初めは判りませんでした。ちょっとふれたぐらいで判りませんでしたが、だんだん判ってまいりまして、 私は、ただならない戦き(おののき)を感じとりました。どうしたらいいだろう。この青年(当時21,2才)をどうして私などの様な者が助けられるだろうか、という事が、そのような事が不安でございました。
どうしようもないものでございましたけれども、現実といたしまして、中島の身辺を世話するとか……。
また、本当に親の愛に飢えた一人の青年を慰める……私みたいに何も知らない百姓出の女でも、からかわれても、それをそのまま受けて喜び、悲しみ、しまいには涙を流すような女でございますから、本当にそれっきり何も出来ない者でございましたけれども。

(結婚後は)今に比べてきびしい生活でございました。中島は、七十五円かそこらの月給を頂いておりました中から、二十円から三十円が薬代の病気をいたします。
そういう苦しみの中から「僕は、違う何かを書くんだよ」とは、はっきりとは申しませんけれども…違う人でございますねぇ。私は、何かを察しました。

註/憐愛…いつくしむ。(白川静『字通』)

1978年の中島敦の会での記念写真。山月記の文学碑の前で、花束を抱いたタカさん。
※座談会のときではありません

※テープ起こし&構成/中島敦の会
※出典/中島敦の会 会報3号(1980年)記事「昭和51年中島敦の会(その1)より
※()内は編集者の補足。文意を優先し、エピソードを前後させましたが、内容は変更していません。

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